顔が似ていただけなのに──『鬼平外伝 熊五郎の顔』と疑念の境界線

人の記憶

先ほど、時代劇専門チャンネルで『鬼平外伝 熊五郎の顔』を流し見していました。

実はこの作品、これまできちんと見たことがありませんでした。

何となく画面を眺めていたのですが、いつの間にか物語に引き込まれていました。

『鬼平』といえば、盗賊を追う火付盗賊改方の捕物が大きな見どころです。

ところが、この作品で私が印象に残ったのは、盗賊を捕らえることそのものよりも、一人の女性の心の揺れでした。

夫を殺された女房の前に現れた男

物語では、岡っ引きの亭主が盗賊に殺されます。

残された女房は夫を失った悲しみの中で喪に服していました。

そんな時、旅の行商人が怪我を負っているところに出会います。

彼女はその男を助けたことから縁を持ち、やがて二人は深い仲になっていきます。

夫を亡くしたばかりの彼女にとって、その男は、悲しみの中に差し込んできた新しい縁だったのでしょう。

ところが、そこへ夫を殺した盗賊の仲間が番屋に勾留されているという話が絡んできます。

盗賊改は、捕らえた仲間を助けるために盗賊たちが現れると睨み、おとり捜査を仕掛けます。

そして、その捜査の過程で一枚の人相書きが女房の心を揺さぶることになります。

人相書きに似た男

人相書きに描かれていた盗賊の特徴が、彼女の知る行商人の男と似ていたのです。

それまで彼女にとって、その男は「自分が助けた旅の行商人」でした。

ところが、人相書きを見た瞬間から、その顔に別の意味が加わってしまいます。

「この人は、本当にただの行商人なのだろうか」

「もしかすると、夫を殺した盗賊の仲間なのではないか」

もちろん、行商人が怪しい行動をしたわけではありません。

ただ、顔立ちが似ていただけです。

しかし、人間の心というものは、一度疑念が生まれると、それまで何でもなかったものまで意味を持ちはじめます。

優しい言葉も、親切な態度も、

「何か裏があるのではないか」

と見えてしまう。

そして彼女は、行商人を疑うだけではなく、そんな男と関係を持ってしまった自分自身まで責めるようになります。

人相書きは「特徴」だけを描くものではない

ここで興味深いのが、現実の似顔絵捜査です。

容疑者の似顔絵は、単純に「眉が太い」「鼻が高い」「顎が角張っている」といった特徴を並べれば完成するものではありません。

目撃者が覚えている顔の印象を聞き出し、その記憶をもとに、顔全体の雰囲気を再現していく。

だから、出来上がった似顔絵には、単なる部品の集合ではなく、

「何となく、この顔をどこかで見たことがある」

と思わせるような、人間の記憶に残る「顔そのもの」が浮かび上がることがあります。

そう考えると、『熊五郎の顔』で女房が行商人に疑念を抱いたのも、ある意味では無理のないことだったのかもしれません。

人相書きに描かれた顔と、目の前にいる男の顔が似ている。

しかも彼女は、夫を盗賊に殺されたばかりです。

心が平静な状態ではありません。

そんな時に「似た顔」を見せられれば、

「似ている」

だけで終わらず、

「ひょっとすると……」

という想像へ進んでしまうこともあるでしょう。

疑念は、顔からではなく心から生まれる

しかし、この作品を見ていて面白いと思ったのは、疑念を生んだのが人相書きだけではなかったことです。

もし彼女が平穏な暮らしをしていたなら、同じ人相書きを見ても、

「よく似た顔だな」

程度で済んでいたかもしれません。

夫を殺され、喪に服している。

そこへ偶然、怪我をした男が現れる。

その男に心を寄せるようになる。

そして、その男が人相書きの人物と似ている。

いくつもの偶然が重なったことで、彼女の中に疑念が生まれたのです。

つまり、

人相書きが彼女を疑わせたというより、彼女の心が人相書きに意味を与えてしまった。

そう考えると、この物語は単なる捕物帳ではなく、人間の心理を描いた作品として見えてきます。

寺島しのぶが演じた「好きなのに疑ってしまう女」

この複雑な女心を演じていたのが、寺島しのぶさんです。

この役は、「夫を殺された女」と一言で説明できるものではありません。

夫を失った悲しみがある。

それでも、新しい男に惹かれていく。

その男を信じたい。

しかし、もしかすると自分は騙されているのではないかと思う。

そして、もし本当に盗賊の仲間だったとしたら、自分は夫の仇につながる男と関係を持ってしまったことになる。

悲しみ、愛情、疑念、恐怖、自己嫌悪。

それらが一人の女性の中で同時に動いています。

寺島しのぶさんの演技が印象的なのは、こうした感情を「説明」してしまわないところです。

台詞だけで、

「私はこの人を疑っています」

と説明するのではなく、視線や表情、間の取り方から、

「信じたい。でも、もし違っていたら……」

という心の揺れが伝わってくる。

人間の感情は、いつも一つに整理されているわけではありません。

好きなのに疑う。

疑いたくないのに疑ってしまう。

そして、疑っている自分自身が嫌になる。

そうした矛盾を成立させるところに、寺島しのぶさんならではの演技力があるように感じました。

熊五郎が現れて、疑念は晴れる

物語の終盤、下手人である熊五郎が番屋に乗り込み、捕らえられている仲間を助けようとします。

しかし、そこで逆に御用となります。

ここで事件の真相が明らかになります。

女房が疑っていた行商人は、盗賊とは何の関係もない。

人相書きに似ていただけの、まったく別人だったのです。

女房の疑念は、完全な誤りでした。

けれども、その誤りを単純に「勘違い」で片付けてしまうのも違うように思います。

夫を殺されたばかりだった。

心が弱っていた。

そこへ新しい男が現れた。

その男が、夫を殺した盗賊の人相書きと似ていた。

彼女の立場に立ってみれば、疑念が生まれてしまったこと自体は、それほど不自然ではありません。

事実が分かっても、疑念は消えない

そして、この作品で特に印象に残ったのがラストです。

行商人は本当に無関係な人物でした。

その後は妻子とも仲睦まじく暮らしていくことが描かれます。

事件は解決しました。

悪人は捕まり、善人は日常へ戻っていく。

普通なら、ここで物語を閉じてもいいでしょう。

ところが、観ている側の頭には、あの人相書きの印象が残っています。

そして、おそらく女房の中にも残っている。

「あの人は盗賊ではなかった」

これは事実です。

しかし、

「あの人の顔が、人相書きに似ていた」

という記憶まで消えるわけではありません。

ここが、この作品のラストの何とも言えない味わいだと思います。

疑いが間違いだったと分かっても、疑った記憶まで消えるわけではない。

人間の心は、事実が判明したからといって、すべてを綺麗に初期化できるほど単純ではないのです。

人は「顔」に物語を重ねてしまう

私たちは普段、人の顔を見て、その人を判断しています。

しかし、本当に見ているのは「その人」なのでしょうか。

自分の経験や先入観、恐怖や期待を、その人の顔に重ねて見ているだけなのかもしれません。

今回の女房の場合も、最初は単なる行商人でした。

ところが、人相書きを見たことで、

「行商人の顔」

「盗賊の仲間かもしれない男の顔」

が重なってしまった。

そして、彼女自身もその境界から抜け出せなくなっていく。

考えてみれば、人相書きは犯人を探すためのものです。

しかし、それを見る人間の心理によっては、無関係な人間まで疑うきっかけにもなってしまう。

「似ている」という事実は、決して「同じ」という意味ではありません。

それでも人間は、その二つを簡単につなげてしまいます。

「熊五郎の顔」は誰の顔だったのか

『鬼平外伝 熊五郎の顔』という題名を改めて考えると、熊五郎本人の顔だけを指しているのではないようにも思えます。

女房が見ていた行商人の顔。

人相書きに描かれた熊五郎の顔。

そして、その二つを重ねてしまった女房の心。

事件の真相が明らかになった後、行商人は何も悪くありません。

妻子と仲睦まじく暮らしていく。

それでも、女房の記憶の中には、一度重なってしまった「熊五郎の顔」が残っている。

もしかすると、この作品で描かれていたのは、盗賊の顔ではなく、

人間が他人の顔に勝手に描いてしまう「もう一つの顔」

だったのかもしれません。

事件は解決する。

下手人も捕まる。

善良な人間は日常へ戻っていく。

それでも、一度心に刻まれた疑念だけは、そう簡単には御用にならない。

そんなところに、この作品の「苦」があり、同時に、人間の心の面白さがあるように感じました。


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