生命の境界線──マンモス、キメラ、そして根なし草の人間

個人と共同体

先日、アニマルプラネットを眺めていると、ケナガマンモスを現代に蘇らせようとする最新技術を紹介する番組が放送されていました。

マンモスのDNAを研究し、現生のゾウを基盤にマンモスの特徴を持った生物を作ろうという試みです。

「絶滅した動物を蘇らせる」。

こう聞くと、まるで映画『ジュラシック・パーク』の世界が現実になったようで、何とも壮大な話に聞こえます。

しかし、そこでふと思いました。

蘇らせることが、本当に地球にとって良いことなのだろうか。

ケナガマンモスに限らず、かつて地球上には現在とは異なる環境に適応した、数多くの生物が存在していました。

ところが環境が変化し、その中で生き残れなくなった生物は絶滅していきました。

サーベルタイガーも、その代表的な存在でしょう。

もちろん、絶滅の原因は一つではありません。

気候変動や食料環境の変化、人間による狩猟など、複数の要因が絡んでいると考えられています。

それでも現在の人間が、その絶滅した生物を再び作ろうとしている。

ここには少し不思議な矛盾があります。

自然環境の変化によって消えていった生命を、人間が科学によって再び作ろうとしているのです。

しかも、それが本当に「復活」なのかという問題もあります。

ゾウを基盤としてマンモスの遺伝的特徴を組み込んだ生物が誕生したとして、それは果たしてケナガマンモスそのものなのでしょうか。

それとも、

「マンモスの特徴を持った、新しい生命体」

なのでしょうか。

そう考えると、「復活」という言葉そのものが少し怪しくなってきます。

人間は生命の設計者になった

さらに考えてみると、人間はすでに動物の姿や性質を、人間の都合に合わせて変えてきました。

家畜やペットは長い年月をかけて選択繁殖され、人間の生活に適応するよう変化してきました。

大型ネコ科動物についても、「もっと飼いやすくできないのか」「もっと人間に馴れる個体を増やせないのか」と考える人が出てきます。

しかし、ライオンやトラのような野生動物を、人間に都合の良い存在へ変えていけば、それで問題が解決するわけではありません。

人間にとって扱いやすい性質を持たせることと、その動物自身にとって望ましい環境を与えることは、まったく別の話だからです。

科学には、

「できるか、できないか」

という問いがあります。

しかし生命を扱う場合には、もう一つ、

「できたとしても、やっていいのか」

という問いが付いてきます。

そして、その次には、

「作った生命に、最後まで責任を持てるのか」

という問いまで付いてくる。

ここまで来ると、単なる科学技術の話ではありません。

倫理の話になってきます。

神話の怪物が現実になる日

さらに想像を膨らませると、昔の神話に登場する生物まで頭に浮かんできます。

ライオンと鷲を組み合わせたようなグリフォン。

人間と馬が一体になったケンタウロス。

蛇や鳥、獣など、現実に存在する生物の特徴を組み合わせて生み出された数々の神話上の生命。

昔の人間は、それらを想像の中で作りました。

ところが現代では、

「そんな生物は存在しない」

で終わっていたものが、

「もし作ろうとしたら、どこまで可能なのだろう」

という問いに変わりつつあります。

もちろん、遺伝子技術があれば神話の怪物を自由自在に作れる、という話ではありません。

生命はそんなに単純なものではありません。

しかし、人間が生物の設計そのものに介入できるようになったことで、昔なら完全な空想だったものの一部が、科学技術の議論の中に入ってきたことは確かでしょう。

今度は人間自身が「異民」になる

そんなことを考えていると、近未来を舞台に、人間が動物や植物のような姿へ変化していくSF作品も思い出します。

『テラフォーマーズ』のように、人間に別の生物の能力を組み込む発想です。

ここまで来ると、話は少し逆転します。

これまでは、

「人間ではないものが、人間社会へ入ってくる」

ことを異民と考えていました。

しかし、人間自身が動物や植物へ変化するなら、

「人間が、人間社会から外れていく」

ことになります。

果たして、その存在は人間なのでしょうか。

それとも、もう異民なのでしょうか。

外見が変われば異民なのか。

遺伝子が変われば異民なのか。

記憶が残っていれば人間なのか。

それとも、人間社会から排除された瞬間に異民になるのでしょうか。

これはAIやクローンにもつながる問題です。

身体を持たないAI。

遺伝的に複製されたクローン。

絶滅動物の特徴を組み込まれた生命。

動物や植物の性質を持つようになった人間。

姿は違っていても、共通しているのは、

「人間と人間ではないものの境界線」

に立っていることです。

そして私は、根なし草

そんな生命たちのことを考えているうちに、ふと自分自身のことまで考えてしまいました。

マンモスは氷河期の環境に適応し、ライオンは草原に、トラは森に、植物は大地に根を張って生きています。

では、自分はどうなのだろう。

どうやら私は、あまり根を張っていない。

社会に完全に馴染んでいるわけでもない。

かといって、社会から完全に離れているわけでもない。

どこかに所属しているようで、どこかに所属していない。

植物で例えるなら、土にしっかり根を張る植物というより、水面を漂う根なし草のようなものかもしれません。

しかし、考えてみれば、根がないからこそ見えるものもあります。

大地に深く根を張っている人間からすれば、そこにあるものは「当たり前の風景」です。

ところが、少し離れた場所から眺めていると、

「なぜ人間はこんなことを当たり前だと思っているのだろう」

と疑問に思うことがあります。

もしかすると、私が「異民」という存在に惹かれるのも、そこに理由があるのかもしれません。

人間は創造主になれるのか

科学技術は、これからさらに進歩していくでしょう。

絶滅した生物を蘇らせる。

遺伝子を組み替える。

新しい生物を作る。

人工知能に知性を与える。

いつか、人間が神話の中でしか存在しなかったような生命を作ろうとする時代が来るかもしれません。

しかし、そのとき本当に問われるのは、

「作れるかどうか」

ではないと思います。

むしろ、

「作った生命を、人間は最後まで引き受けられるのか」

ということではないでしょうか。

人間は長い間、自然を観察し、利用し、そして支配してきました。

そして今度は、生命そのものを設計しようとしている。

それは科学の大きな進歩である一方で、人間が「創造主」に近づいていくことでもあります。

ただし、創造することと、責任を負うことは同じではありません。

神話の神々なら、作った生命を世界に放り出して終わることもできるでしょう。

しかし、人間にはその後始末が待っています。

マンモスが復活したとき。

キメラが誕生したとき。

人間と動物の境界に立つ生命が生まれたとき。

そして、人間そのものが別の生命へ変わってしまったとき。

その存在を「異民」と呼ぶのは、一体誰なのでしょう。

もしかすると、生命の境界線を最初に越えているのは、作られた怪物ではなく、それを作ろうとしている人間なのかもしれません。


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