第2部 見た目の信頼は崩壊するのか――AIと加工が変える身体のリアリティ

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前回の記事では、人が見た目で判断してしまう理由について書いた。

引き締まった身体や整った外見を見ると、私たちは無意識のうちに「しっかりした人なのだろう」と感じてしまう。

それは偏見というより、人間が情報を素早く処理するための仕組みに近い。

しかし最近、その前提そのものが揺らぎ始めているように思う。

私たちは長い間、見た目を信用してきた。

整った顔立ち。

引き締まった身体。

清潔感のある服装。

そうしたものは、その人を判断するための材料として機能してきた。

もちろん完全ではない。

それでも、ある程度は信用できる情報だった。

ところが現在、その状況は少しずつ変わり始めている。

スマートフォン一つで写真は加工できる。

肌は滑らかになり、輪郭は整い、体型さえ補正できる。

少し前なら写真だけだったものが、今では動画でも違和感なく加工できるようになった。

つまり私たちは、「実際の姿」ではなく「編集された姿」を見る機会が増えているのである。

さらにその先にはAIがある。

今では実在しない人物の画像を作ることも珍しくなくなった。

存在しない顔。

存在しない身体。

存在しない人生。

それらが本物らしく表示される時代になっている。

ここまで来ると、見た目はもはや現実を証明するものではなくなる。

昔なら筋肉は生活の痕跡だった。

農作業を続けた人。

現場で働く人。

荷物を運ぶ人。

そうした身体には、それぞれの生活が刻まれていた。

身体を見れば、その人が何をしてきたかがある程度想像できたのである。

しかし現在は違う。

身体そのものを目的として作ることができる。

しかも加工によって、さらに理想的な姿へ近づけることもできる。

見た目と現実の距離は、以前よりずっと曖昧になった。

もちろん、それが悪いことだと言いたいわけではない。

身だしなみを整えることも、自分を良く見せる努力も大切なことだ。

私自身、人は見た目から受ける印象を無視できないと思っている。

ただ、その見た目だけを信用するのは難しくなってきた。

そんな時代に入ったのではないだろうか。

興味深いのは、こうした変化が進むほど、人は逆に「本物らしさ」を求め始めることである。

加工されていないもの。

作られすぎていないもの。

時間の積み重ねが感じられるもの。

そうした存在に安心感を覚える人は少なくない。

では、その「本物らしさ」とは一体何なのだろうか。

次回は、身体・労働・信用という三つの関係から、そのことについて考えてみたい。


『見た目の信頼は崩壊するのか――AIと加工が変える身体のリアリティ』
見た目を信じられなくなったとき、人は何を根拠に他者を判断するのでしょうか。
その先には、「本物らしさ」とは何かという新しい問いが待っています。
→ 次の記事
『本物らしさはどこへ向かうのか――身体・労働・信用が分離した社会で』

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