善人と悪人のあいだ ― 『愚呂地』と『レ・ミゼラブル』を観て

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昨年、時代劇専門チャンネルで板東妻三郎主演の無声映画『愚呂地』を観る機会があった。

古い無声映画であるにもかかわらず、不思議な余韻が残った。

主人公は一人の侍である。

師範代の娘に想いを寄せたことから誤解を招き、職も地位も失ってしまう。

やがて世を恨み、悪の道へと流れていく。

しかし後年、窮地に陥った夫婦を助けることになる。その妻こそ、かつて恋心を抱いた女性だった。

そして彼は再び善の心を取り戻していく。

筋書きだけを追えば、恋愛が人生を変えた物語のように見える。

だが私には別のものが見えていた。

人は本当に、そんなに簡単に善人になったり悪人になったりするものなのだろうか。

悪人は生まれるのか

この映画を観ていて思い出したのが『レ・ミゼラブル』だった。

ジャン・バルジャンはパンを盗み、長い服役生活を送る。

法律だけを見れば犯罪者である。

しかし読者の多くは彼を悪人だとは思わない。

むしろ社会の厳しさや理不尽さに翻弄された人物として見る。

『愚呂地』の主人公も同じである。

恋愛だけで人生が狂ったわけではない。

誤解され、居場所を失い、社会との繋がりを失った結果として悪へ流れていく。

つまり彼らは、

悪人だったから悪に堕ちたのではない。

社会からこぼれ落ちた結果として悪の側へ流れていったのである。

江戸の人々が知っていたこと

興味深いことに、江戸時代の制度にも似た考え方が見られる。

奉行所は犯罪者を裁くだけではなかった。

人足寄場のような施設を設け、無宿人や軽犯罪者に仕事を与え、再び社会へ戻そうとしていた。

そこには、

「人は環境によって変わる」

という理解があったように思える。

仕事を失えば無宿になる。

無宿になれば盗みを働く。

ならば仕事を与えればよい。

現代の福祉制度にも通じる発想である。

昔の人々は、人間を善悪だけで割り切れるほど単純な存在とは考えていなかったのかもしれない。

善人と悪人の境界線

時代劇には不思議な人物がよく登場する。

盗賊なのに義理堅い者。

博徒なのに情に厚い者。

立派な武士なのに卑怯な振る舞いをする者。

善人と悪人がきれいに分かれていない。

むしろ、その境界線の上で揺れ動いている。

だから人は物語に引き込まれるのだろう。

完全な善人にも、完全な悪人にも、自分自身を重ねることは難しい。

しかし迷いながら生きる人物には、どこか自分の姿が見える。

情報社会が映し出したもの

最近は「善か悪か」で判断できない出来事が増えたように感じる。

SNSでは一つの出来事に対して無数の意見が飛び交う。

ある人にとっての正義が、別の人にとっては不正義になる。

何が正しいのか分からなくなることもある。

しかし考えてみれば、人間そのものが複雑なのだ。

昔の人々が単純だったわけではない。

『レ・ミゼラブル』も『愚呂地』も、ずっと前から人間の複雑さを描いていた。

違うのは、現代ではそれが隠しきれなくなったことかもしれない。

おわりに

子供の頃は時代劇を見ながら、善人と悪人が戦う話だと思っていた。

しかし年齢を重ねるにつれて、違うものが見えるようになった。

悪人にも事情があり、善人にも弱さがある。

人は白と黒だけでは語れない。

だからこそ、私たちは悪人が立ち直る物語に心を動かされるのだろう。

それは他人事ではない。

誰の中にも善と悪の両方があり、その間を揺れ動きながら生きていることを知っているからである。

『愚呂地』も『レ・ミゼラブル』も、そんな人間の不安定さを静かに描いた物語だったように思う。


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