郷土料理というものは、単なる地域の食ではない。
それは「何を食べていたか」という記録であると同時に、「そのとき身体に何が起きていたか」という記録でもある。
さらに言えば、食はその場で終わるものではなく、やがて笑いとなり、言葉となり、記憶として残っていく。
本稿では「鱶の湯さらし」「鼻はじき」「とっぽ話」という三つの要素を通して、その変換の構造を見ていきたい。
鱶の湯さらし──身体に入る文化
鱶の湯さらしは、普段は食用にされにくいイメージのある鱶(サメ類)を湯にさらし、臭みを抜いたうえで辛子酢味噌とともに食べる南予地域の食文化として知られている。
この文化において重要なのは、完成した料理ではなく、その前段階にある「処理」の工程である。
食材をそのまま受け取るのではなく、生活の知恵によって食べやすい形へと変換する。
そこには、食べる以前の技術として受け継がれてきた文化が息づいている。
さらに特徴的なのは、辛子酢味噌による強い刺激である。
それは単なる味覚ではなく、身体そのものに働きかける感覚として現れ、食べるという行為に「思い通りにならない身体」という側面を持ち込む。
鼻はじき──その場に生まれる笑い
その身体反応の中で語られるのが「鼻はじき」である。
辛子酢味噌の刺激によって鼻がツンとし、思わず顔をしかめたり、鼻を鳴らしたりする。
それは身体が先に反応してしまう、ごく自然な現象である。
しかし、この文化ではその反応は失敗でも恥でもない。
むしろ、その場にいる人々が同じ反応を見て笑い合い、食卓の空気を和ませるきっかけとなる。
重要なのは、笑いが後から作られるものではなく、身体反応と同時に生まれていることである。
鼻はじきとは、身体と共同体が同じ瞬間を共有する文化でもあった。
とっぽ話──時間を経た言葉
一方、その体験は時間を経ることで別の形へと変わっていく。
それが「とっぽ話」である。
とっぽ話とは、少しばかばかしく、それでいてどこか温かみのある笑い話を郷土の言葉で語る文化として知られている。
ここでは身体の体験が、そのまま言葉へと姿を変えている。
同じ出来事でも、
- 鼻はじき──瞬間に生まれる身体の反応
- とっぽ話──時間を経て語られる記憶
という異なる時間軸を持つ。
両者は別の文化ではなく、一つの経験が異なる姿をとったものなのである。
三つの構造──食はどこへ向かうのか
これらを整理すると、次のような流れが見えてくる。
- 鱶の湯さらし:身体へ入る刺激(入口)
- 鼻はじき:その場で起こる身体反応(現在)
- とっぽ話:言葉として残る記憶(時間)
つまりこれは、単なる郷土料理の話ではない。
食べるという行為を起点として、
身体 → 反応 → 記憶 → 言葉
へと変換されていく文化のプロセスなのである。
現代との距離
現代の食事は、個人単位で完結することが多い。
何を食べるかは自由であり、その時間を誰とも共有しなくても困ることは少ない。
しかし、かつての食には、
- 同じものを囲むこと
- 身体の反応を共有すること
- その出来事を笑いとして語り継ぐこと
という連続した営みが存在していた。
鱶の湯さらしとその周辺文化は、その痕跡を今に伝えているように思える。
おわりに
私自身は、鱶の湯さらしをまだ食べたことがない。
その代わり、以前よく通っていた喫茶店で、酒の肴として「サメの肝の煮込み」と「エイの煮付け」をいただいたことがある。
どちらも当時の私には馴染みのない料理だったが、不思議とその味だけは今でも鮮明に記憶に残っている。
サメやエイは淡泊な身質であるため、地域によっては煮物や湯引きなどの郷土料理として親しまれる一方、加工食品の原料として利用されることも少なくない。
思い返してみれば、私の記憶に残っているのは料理そのものというより、「初めて食べた」という身体の驚きだったのかもしれない。
その驚きはやがて記憶となり、今こうして言葉へと姿を変えている。
郷土文化とは、料理だけを受け継ぐものではない。
身体がどう反応し、その反応が笑いとなり、そして言葉として語り継がれていくのか――その変換の過程そのものを受け継ぐ文化なのである。
鱶の湯さらし、鼻はじき、とっぽ話。
それらは別々の文化ではなく、一つの経験が時間の中で姿を変えながら受け継がれてきた、同じ物語なのかもしれない。
郷土料理は、身体から言葉へと姿を変えながら受け継がれてきました。
それは料理の話というより、人が「価値」をどのように感じるのかという話でもあります。
食べることは、満たすこととは少し違う。
次の記事では、その小さな違いが生み出す「満足感の仕掛け」を、身近な食文化から見つめてみたいと思います。



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