人はなぜ物語を作るのか ― 江戸の版画からアニメまで

その他の雑記

江戸の出版文化について調べているうちに、不思議なことに気が付いた。

江戸の人々は決して学問書ばかりを読んでいたわけではない。

むしろ人気を集めたのは、挿絵の入った滑稽本や怪談話、人情噺や黄表紙などだった。

今で言えば漫画やライトノベルに近い存在である。

当時の版元も商売人である以上、売れない本は作らない。

つまり人々は昔から理屈よりも物語を求めていたのだろう。

地獄絵も一つの物語だった

地獄絵を見ていると、現代人は宗教画として捉えがちである。

しかし当時の人々にとっては少し違ったのかもしれない。

「悪いことをすると地獄へ落ちる」

という教えを文字だけで伝えるよりも、

鬼に責められる姿を絵で見せる方が分かりやすい。

理屈を物語に変えて伝える。

そこには現代の漫画と共通するものがある。

妖怪は恐怖を見える形にした

妖怪も同じである。

河童や天狗は実在しない。

しかし川の危険や山への畏れは実在した。

人は理解できないものを、そのままでは受け止めにくい。

だから姿を与える。

名前を付ける。

物語にする。

そうすることで自然と向き合えるようになる。

妖怪とは、昔の人々が作り出した想像上の存在であると同時に、人間の恐怖や不安を映した鏡でもあったのだろう。

善人と悪人の間

『愚呂地』や『レ・ミゼラブル』について考えていた時も同じことを感じた。

人は善人か悪人かだけでは語れない。

事情があり、迷いがあり、失敗もする。

だから私たちは単純な正義の物語よりも、人間の弱さや葛藤を描いた作品に惹かれる。

昔話も講談も落語も、結局は人間を描いている。

漫画とアニメは突然生まれたわけではない

日本の漫画やアニメが海外で高く評価される理由について様々な意見がある。

技術力や表現力ももちろんあるだろう。

しかし私は、それだけではないと思う。

日本には昔から、

見えないものを見える形にする文化があった。

地獄絵は倫理を描いた。

妖怪は自然への畏れを描いた。

民話は人生の知恵を描いた。

講談や落語は人間の滑稽さを描いた。

漫画やアニメは、その延長線上にあるように思える。

雑談が人を育てる

考えてみれば、私自身も難しい専門書より雑談から学ぶことの方が多い。

井戸端会議。

酒場の世間話。

長屋の立ち話。

落語。

講談。

映画。

漫画。

どれも雑談の延長線上にある。

人は理屈だけでは生きられない。

だから物語を作る。

そして物語を通じて人を理解し、自分自身を理解しようとする。

江戸の版元が売っていたものも、現代の漫画家やアニメ制作者が作っているものも、本質的には同じなのかもしれない。

それは娯楽でありながら、人間を映す鏡でもある。


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