時代劇専門チャンネルで『佐武と市捕物控』を流し見しながら作業をしていると、ふと手が止まる場面がある。
盲目の居合いの達人・市が、ようやく目が見えるかもしれないという手術を受ける話だ。
医師からは「決して包帯を取ってはいけない」と言い渡される。
この包帯を外さなければ、長年失っていた光を取り戻せるかもしれない。
誰もがそう信じていた。
しかし、その時だった。
左武が危険に陥ったことを察した市は、迷うことなく病床を飛び出す。
包帯を外してはならない戒めを破り、左武のもとへ向かう。
その代償として、市は再び光を失ってしまう。
普通に考えれば、あまりにも割に合わない選択だ。
自分の人生を左右するほどの希望を捨ててまで、他人を助ける人がどれほどいるだろうか。
現実の私たちは、そこまで人のために尽くせるだろうか。
おそらく、多くの人は難しいと答える。
家族がいて、仕事があり、自分の生活がある。
誰かを助けたいと思っても、自分を犠牲にする決断は簡単にはできない。
それが人間として自然な姿なのだと思う。
しかし一方で、不思議なこともある。
災害や事故のニュースでは、自分の危険を顧みずに見知らぬ人を助けた人の話を耳にする。
後から本人がインタビューで語る言葉は、決まって似ている。
「気づいたら体が動いていました。」
そこには損得勘定はない。
考えるより先に、体が動いている。
市もきっと同じだったのだろう。
「目が見えなくなるかもしれない。」
そんな計算をしていたら、左武のもとへは走れなかったはずだ。
ただ、「左武を助けなければ。」
その思いだけで動いた。
だからこそ、この場面は感動を押し付ける演出には見えない。
市という人物なら、きっとそうする。
そう思わせるだけの積み重ねがあるからだ。
最近は「自己犠牲」という言葉を聞く機会も少なくなった。
合理性や効率が重視される時代では、自分を守ることも大切な生き方である。
それを否定するつもりはない。
むしろ、それが現実なのだろう。
それでも時代劇は、ときどき私たちに問いかけてくる。
「あなたは、大切な誰かのためなら何を捨てられますか。」
その答えは、人それぞれでいい。
実際に市のような行動を取れる人は多くないだろう。
それでも、そんな人情に触れると胸が温かくなるのは、人間の心のどこかに「誰かのために動きたい」という願いが、今も残っているからなのかもしれない。
時代劇が描いているのは、昔の日本ではない。
いつの時代にも変わらない、人間の心なのだ。
次の記事
市は人のために自分を犠牲にしました。しかし、その一方で左武は「正義とは何か」という答えのない問いに苦しみ続けます。次の記事では、その葛藤について考えてみます。



コメント