宝泉坊──一杯のワンタン麺が教えてくれた、店という生き方

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「人には忘れられない一杯がある。」

それは高級料理とは限りません。 むしろ町の片隅で静かに営業していた、小さな食堂や町中華だったりします。

私にとって、その一軒が「宝泉坊」でした。


当時、私は松山市の和泉という地域に住んでいました。

市駅まで歩いて行ける距離だったため、休日になると駐車料金を気にせず街へ出掛けたり、近所を散歩したりすることが日課になっていました。

ある夜、小腹が空いた私たちは、叔母と一緒に夕食を兼ねて近所を歩くことにしました。

ところが、この叔母という人物がなかなかの難敵です。

食べ物に対するこだわりが人一倍強く、店選びも簡単には首を縦に振りません。

今思えば、その頑固さも味覚への誠実さだったのかもしれませんが、当時の私は「今日はどこで妥協してくれるだろう」と、そればかり考えていました。

何軒か見送りながら国道沿いを歩いていると、一軒の町中華が目に入りました。

「もうここでいいじゃないか。」

半ば疲れ果てた私は叔母を説得し、その暖簾をくぐりました。

その店が「宝泉坊」でした。


店内は決して広くありません。

丸いカウンター席が印象的で、その中心では店主が一人、黙々と鍋を振っています。

がっしりとした体格に、いつも白い長靴。

注文を取り、ラーメンを作り、チャーハンを炒め、餃子を焼き、お客さんに料理を運ぶ。

それらをすべて一人でこなしていました。

今考えても、よくあれだけの仕事を一人で回していたものだと感心します。

店内には常連客らしき人や仕事帰りのグループもいて、それぞれ違う料理を注文しています。

店主は慌てる様子もなく、淡々と料理を仕上げていきました。

あれは職人というより、一人で店という舞台を支える演出家だったのかもしれません。


私はスタミナラーメンとチャーハン。

叔母はワンタン麺。

そして餃子を一皿注文して二人で分けることにしました。

最初に運ばれてきたスタミナラーメンは、細麺の醤油スープに炒めた挽き肉とニラ。

一口食べると、醤油の香ばしさの中に挽き肉の旨味とニラの香りが広がり、食欲をさらに刺激します。

派手さはありません。

しかし何度でも食べたくなる、不思議な引力を持った一杯でした。

チャーハンも香ばしく炒められ、少し濃いめの味付け。

その中に入ったコーンの甘みが全体をやさしくまとめています。

町中華らしい力強さと家庭料理の温かさが同居した味でした。

そして叔母の前にはワンタン麺。

豚骨ベースのスープに太麺。

しばらく無言で食べ続けたあと、叔母がぽつりと一言。

「これは美味しい。」

その一言を聞いた瞬間、私は内心ほっとしました。

食に厳しい叔母が認めた店。

それだけで、この店の実力が分かったような気がしたのです。


私たちは月に一度訪れる程度で、常連と呼べるほどではありませんでした。

それでも叔母は、今でも時々「あのワンタン麺は美味しかった」と話します。

人の記憶とは不思議なものです。

何十軒もの店へ行っても忘れてしまう味がある一方で、何十年経っても思い出す一杯があります。

宝泉坊は、まさにそんな店でした。


あの辺りはラーメン店が立ち並ぶ激戦区です。

全国チェーンも数多く並ぶ中、一人だけで店を守り続けることは簡単なことではありません。

だからこそ私は、店主の仕事ぶりに深い敬意を抱いていました。

残念ながら、現在は店を閉められています。

時代の流れだったのか、それとも店主自身の決断だったのかは分かりません。

しかし、一軒の店がなくなるということは、一つの味だけではなく、そこに集まっていた人々の思い出まで静かに幕を下ろすことなのだと、今になって感じます。

叔母は今でも言います。

「死ぬ前に、もう一度あのワンタン麺が食べたい。」

その言葉を聞くたび、私は少し本気で考えてしまいます。

もし私に大金が入る日が来たなら、一日だけでも店主にお願いして、宝泉坊を再び開いてもらえないだろうか、と。

もちろん夢物語です。

それでも、人の心を動かす料理とは、それくらいの願いを抱かせる力があるのだと思います。

食べ物は消えてしまいます。

けれど、その味と、その店で過ごした時間だけは、人の記憶の中で静かに生き続けるのでしょう。


料理は食べればなくなります。

けれど、その料理を誰と食べ、どんな景色を見ていたのかは、不思議と心の奥に残り続けます。

私たちは味を覚えているのではなく、人との時間を味として記憶しているのかもしれません。

そんな「食と記憶」の不思議な関係について、次の記事で考えてみたいと思います。

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私は食べたことがない ― 消えゆく郷土菓子『つみかん』の話

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