映画には、その時代の不安が映し出される。
昨夜観た『クリエイター』も、まさにそんな一本だった。
物語の舞台は、AIが人間と共存する近未来。ところが、核攻撃によってアメリカ国内で二十万人もの犠牲者が出たことをきっかけに、AIは人類の敵として排除される存在になっていく。
設定だけを見れば、『ターミネーター』を思い浮かべる人も多いだろう。
しかし物語を追っていくと、真実は少し違っていた。
核攻撃はAIの反乱ではなく、人為的なミスによって引き起こされた可能性が示される。それでも人々はAIを悪者とし、その怒りを向け続ける。
つまり、この映画が描いていたのは「AIの恐怖」ではない。
恐怖を前にした人間が、都合のよい敵を作り出してしまう姿だった。
歴史を振り返っても、人類は危機に直面するたびに、責任を誰かへ押しつけることで安心を得ようとしてきた。
その相手が他国であったり、異文化であったり、時には新しい技術であったりしただけで、本質は昔から変わっていないのかもしれない。
一方で、現実の日本は映画とは違う問題に直面している。
人口減少と少子高齢化である。
特に地方では過疎化が進み、商店は閉店し、公共交通は縮小され、農業や介護、物流、建設など、多くの現場が慢性的な人手不足に苦しんでいる。
人がいなければ、社会は維持できない。
そんな現実の中で発展しているAIやロボット技術は、人類を支配するためではなく、人間社会を支えるために生まれてきた技術だ。
工場では、人が何時間もかけていた単純作業をロボットが休むことなく続けている。
物流では、自動搬送設備やAIによる仕分けが当たり前になりつつある。
介護の現場でも、人を置き換えるためではなく、介護する人の負担を減らすための技術開発が進められている。
映画のような反乱劇は、物語だからこそ成立する。
現実のロボットは感情を爆発させることもなければ、人類への復讐を企てることもない。
ただ淡々と、人間に与えられた仕事をこなしている。
むしろ、私たちがこれから向き合わなければならない問題は別のところにある。
AIをどう使うのか。
誰が責任を負うのか。
そして、人間とAIがどのように共存していくのか。
『クリエイター』を観終えたあと、私の頭に残ったのはAIへの恐怖ではなかった。
本当に恐ろしいのは、技術ではなく、それを使う人間なのではないか。
そんな問いだった。
AIは道具である。
包丁が料理にも凶器にもなるように、AIもまた使い方によって社会を豊かにも貧しくもする。
人口が減り続ける日本では、AIやロボットは「人間の代わり」ではなく、「人間だけでは支えきれなくなった社会を補う存在」になっていくだろう。
映画は未来を描く。
しかし、その未来を決めるのはAIではない。
いつの時代も、人間自身なのである。
次の記事
AIは感情を持たないと言われます。けれど、ときに感情に振り回されるのは人間のほうです。そんな人間の不思議さや矛盾を、映画や日常を通して綴った記事も、このブログでは少しずつ増やしています。


コメント