Discovery Channelを見ていると、ときどき「これは本当にサバイバル番組なのだろうか」と思うことがある。
その代表格が、ベア・グリルスである。
彼のサバイバル番組を見ていると、水がなければ何とかして水分を探し、食料がなければ昆虫や動物を食べる。
ここまでは、まだ分かる。
問題は、その「何とかして」の方法である。
ある番組では、砂漠で老いたラクダの体内に残された草を取り出し、それを絞って水分を得ようとしていた。
ラクダが食べた草から、最後に残った水分を搾り取る。
文章にすると、それだけの話なのだが、映像で見ると衝撃が違う。
「そこまでして水を飲むのか……」
思わずそう呟いてしまう。
しかし、ベア・グリルス本人はいたって真剣だ。
砂漠では水が生命そのものなのだから、飲める可能性があるものなら利用する。
そこには、文明社会で暮らしている人間には想像しにくい、生存本能の極端な姿がある。
水分補給が、もはや芸になっている
別の場面では、海上の筏の上でウミガメの血液を使って水分を補給しようとする。
しかも、その方法があまりにも強烈だった。
「そこから入れるのか!」
と思わず画面に突っ込みたくなる。
もちろん、現実に真似してよい方法ではない。
しかし、ベア・グリルスの番組には、こういう「そこまでやるのか」という瞬間が何度も登場する。
動物を食べ、虫を食べ、普通なら近寄りたくないものまで利用する。
それを本人は、ほとんど真顔でやっている。
この真顔がまた凄い。
芸人なら、ここで一度カメラに向かって「こんなもの食えるか!」と叫びたくなるところだ。
ところがベアは違う。
「生き残るためです」
という顔をして、そのまま実行する。
その姿を見ていると、サバイバル能力だけではなく、番組に対する異様なサービス精神まで感じてしまう。
ここまで身体を張れば、もはや「芸人魂」と呼びたくなるのも無理はない。
ベアに憧れた人が「帰りたい」と言う
そんなベア・グリルスが、かつて番組の企画で一般のファンをサバイバルに連れていくことがあった。
ファンからすれば夢のような企画だっただろう。
憧れのベアと一緒に大自然へ入り、本物のサバイバルを体験できる。
ところが、実際に始まってみると事情が変わってくる。
真冬の大陸を横断し、顔には虫除けのための泥を塗られ、極寒の川を渡る。
しかも、ベアはいつも通りのペースで進んでいく。
「これがベア・グリルスの世界なのか」
と思って見ていると、参加者の口から、だんだん弱音が出てくる。
そして後半になると、
「ニューヨークに帰りたい……」
という言葉が漏れる。
ここで、なぜか笑ってしまう。
しかし、それは馬鹿にした笑いではない。
むしろ、
「うん……分かるよ」
という、妙な同情に近い笑いなのだ。
最初は「せっかくベアと一緒なんだから頑張れ」と思っていたはずなのに、ここまで来ると、
「もう帰してあげてもいいんじゃないか」
と思えてくる。
野生に憧れることと、野生で暮らすことは違う
私たちは、文明社会に暮らしながら野生に憧れることがある。
キャンプをしてみたい。
山に行ってみたい。
無人島で暮らしてみたい。
自給自足をしてみたい。
そういう生活には、文明社会では得られない自由や力強さがあるように見える。
しかし、実際の野生は美しいだけではない。
寒い。
暑い。
虫がいる。
水がない。
食べ物もない。
そして、眠る場所さえ自分で確保しなければならない。
テレビの画面越しなら笑って見ていられることでも、自分の身体がその環境に置かれれば、話は変わる。
だからこそ、
「ニューヨークに帰りたい」
という一言が妙に人間らしく聞こえる。
野生に負けたのではない。
文明を知っている人間だからこそ、文明に帰りたくなったのだ。
ベア・グリルスは文明の外にいるのか
考えてみれば、ベア・グリルス自身も完全な「野生の人間」ではない。
彼が極限状態を生き抜く姿を、私たちは文明社会のテレビ画面で見ている。
カメラがあり、スタッフがいて、番組として編集され、私たちが安全な場所から眺めている。
つまりベアは、野生を文明社会へ持ち込む人間なのだ。
だから彼のサバイバルは、単純な「文明対自然」ではない。
文明の中にいる人間が、どこまで野生に近づけるのか。
そして、どこまで行けば、
「やっぱり文明に帰りたい」
と思うのか。
そこに、ベア・グリルスの番組の面白さがある。
野生では最強、家庭では……
そして、もう一つ面白い話がある。
ベアは極限状態で、普通の人間なら躊躇するようなものまで食べる。
ところが、それが家庭に戻ると別の問題を引き起こす。
本人いわく、番組で何を食べたのかを知った妻から、キスを拒否されることがあるという。
考えてみれば当然なのかもしれない。
大自然の中では、
「生き残るためなら何でも食べる」
という姿勢が正解になる。
しかし家庭では、
「その口で近づかないで」
になる。
野生では正解だった行動が、文明社会では夫婦関係の問題になる。
この落差が、たまらなく面白い。
ベア・グリルスは、自然界では頼れる男なのだろう。
しかし、極限状態から文明社会へ戻ってくれば、彼もまた、
「変なものを食べて帰ってきた旦那」
なのである。
「帰りたい」は、文明への敗北ではない
ベア・グリルスの番組を見ていると、つい彼の強さに目を奪われる。
何でも食べる。
どこでも進む。
どんな場所でも生き残ろうとする。
しかし、私が面白いと思うのは、むしろその隣で、
「ニューヨークに帰りたい」
と言ってしまう人間の姿である。
野生を体験して初めて、文明のありがたさに気づく。
暖かい部屋。
きれいな水。
普通の食事。
そして、家に帰れるということ。
それは決して野生に負けたということではない。
人間が長い時間をかけて作ってきた文明もまた、生き延びるための道具なのだから。
ベア・グリルスが野生の極限を見せてくれるからこそ、画面のこちら側にいる私たちは、文明のありがたさを再確認できる。
そして今日もベアは、何かとんでもないものを食べている。
それを見ながら私は思う。
「凄いなあ……。でも、私は普通の水でいい。」
野生への憧れと、文明への帰還。
その境界線に立ったとき、人間から自然に出てくる言葉は、案外、
「帰りたい」
なのかもしれない。
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ベア・グリルスの過酷なサバイバルを笑いながら見ていると、ふと気づくことがあります。人間は本当に文明から離れて生きられるのでしょうか。野生の中で生き抜くための道具を手にしたとき、人間の暮らしはどこまで変わるのか。そんな疑問は、やがて「文明は人間を怠け者にしたのか」という、もっと身近な問題へとつながっていきます。



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