山男の家づくり──人力で建てる家は、自由なのか、それとも危険なのか

夏の「山の日」。

ヒストリーチャンネルでは『ザ・山男』シリーズが長時間放送されている。

真夏に見る雪山の映像は、どこか涼しげだ。

白い息を吐きながら歩く山男。 雪に覆われた森。 凍り付いた川。 薪ストーブの炎。

しかし、その風景の中で彼らが行っている作業をじっくり見ると、涼しげという言葉とは程遠い。

そこには、命懸けとも言える肉体労働がある。

山の木から、自分の家を作る

山男たちの生活で興味深いのは、家を建てるための材料まで自分たちで作ってしまうことだ。

山の木を伐採する。

丸太を運ぶ。

自作した製材設備で木材を板や角材に加工する。

そして、その木材を使って家を建てる。

現代の住宅建築では、材料は製材所や建材メーカーから購入し、現場まで運ばれてくる。

しかし山奥では、その「当たり前」が存在しない。

必要なものがなければ、自分で作る。

それが山男の生活なのだ。

クレーンの代わりになる人間の身体

特に印象に残るのが、家を組み上げる場面である。

一般的な建築現場なら、重量のある梁や柱をクレーンなどで吊り上げ、所定の位置まで運ぶ。

人間が巨大な丸太を直接持ち上げる必要はない。

ところが山男の家づくりでは、少人数で丸太を運び、立ち上げ、板などで仮固定しながら組み上げていく場面がある。

これは非常に時間の掛かる作業だ。

しかし、単に「昔ながらだから時間が掛かる」というだけではない。

現代の建築現場では機械が担っている仕事を、人間が身体で代替しているから時間が掛かるのである。

一歩間違えれば、大惨事になる

丸太は重い。

しかも、地面に横たわっている丸太を移動させるのと、それを立ち上げるのでは危険性が大きく違う。

立ち上げた丸太がバランスを崩せば、倒れる。

仮固定が外れれば、突然動く。

支えている人間が足を取られれば、丸太を制御できなくなる。

さらに、丸太と別の部材の間に身体を挟まれる可能性もある。

つまり、作業が順調に進んでいるときには非常に頼もしく見える人間の力が、ほんの一瞬で危険な力に変わる。

「あと少しだから大丈夫」

その油断が許されない世界なのだ。

製材作業もまた危険である

家を建てる前には、木材を作らなければならない。

番組では、自分たちで作った製材設備を使い、大木を板へ加工する場面も登場する。

現代の製材工場と比較すると、少人数で作業していることや、機械の安全設備が十分に確認できない場面もあり、画面だけを見ると非常に緊張感がある。

もちろん、テレビに映っていないところで安全対策が取られている可能性もある。

しかし、それでも高速で回転する鋸刃と巨大な木材を人間が扱っていることには変わりない。

製材という仕事そのものが、重量物や大型機械、木材の跳ね返り、巻き込まれなど、さまざまな危険を伴う仕事であることを考えると、あの作業を単なる「ワイルドな山暮らし」として見ることはできない。

文明は、人間を怠け者にしたのか

ここで一つの疑問が浮かぶ。

クレーンがある。

製材工場がある。

重機がある。

電動工具がある。

なぜ人間は、これほどまでに機械を作ってきたのだろうか。

もちろん、作業を速くするためでもある。

しかし、それだけではない。

人間を危険な場所から遠ざけるためでもある。

重いものを人間が持たなくてもいいように、クレーンが作られた。

巨大な木材を人間が鋸で切り続けなくてもいいように、製材機械が発達した。

高い場所で危険な作業をしなくても済むように、足場や高所作業車が発達した。

便利な道具とは、単に人間を怠けさせるためのものではない。

人間の身体を守るために発達してきたものでもある。

「自分で作る」という自由の代償

山男の生活には、確かに魅力がある。

自分で木を伐り、自分で製材し、自分で家を建てる。

誰かに注文して、誰かに運んでもらい、誰かに施工してもらう生活とは違う。

そこには、自分の生活を自分の手で作り上げるという大きな自由がある。

しかし、その自由には代償もある。

時間が掛かる。

体力を使う。

技術が必要になる。

そして何より、危険が身近になる。

街で暮らしていると、私たちはその危険の多くを見ない。

建材はすでに製材されている。

道路を走れば、トラックが材料を運んでくれる。

建築現場ではクレーンが重量物を吊り上げる。

私たちは完成した家だけを見る。

その家が建つまでに、人間の身体を危険から遠ざけるための膨大な技術と仕組みが存在していることを忘れがちだ。

「便利」は、人間が積み重ねてきた知恵でもある

『ザ・山男』を見ていると、自然の中で生きる人々の強さに目を奪われる。

しかし、同時に逆のことも考えさせられる。

文明から離れれば、人間は自然に近づく。

その代わり、文明が肩代わりしてくれていた仕事を、自分の身体で引き受けなければならない。

木を伐る。

運ぶ。

切る。

持ち上げる。

固定する。

そして家を建てる。

その一つ一つに危険がある。

だから私は、山男たちの生活を見ながら「昔の人は強かった」と単純に考えることができない。

むしろ、

「人間は、こうした危険な作業を少しずつ機械に任せることで、現在の暮らしを作ってきたのではないか」

と思う。

便利さとは、何かを失った結果ではない。

人間が長い時間をかけて、身体を危険から解放するために積み重ねてきた知恵でもある。

山男が自分の手で丸太を立ち上げて家を作る姿は、そのことを逆説的に教えてくれる。

自然の中で自由に暮らすということは、同時に、文明が肩代わりしてくれていた仕事を自分自身で引き受けることなのだから。


次の記事

山男の家づくりを見ていると、人間の身体が本来持っていた力と、それを補うために生まれてきた道具の存在が見えてくる。

木を切る。運ぶ。持ち上げる。組み立てる。

かつては、それらの多くを人間自身の身体で行っていた。

やがて人間は、もっと楽に、もっと速く、もっと安全に作業するために道具を生み出し、さらに機械を生み出していった。

では、私たちは便利になったことで、本当に「怠け者」になったのだろうか。

それとも、道具に仕事を任せることこそ、人間が文明を発展させてきた理由なのだろうか。

次回は、山の暮らしから少し視野を広げ、「文明は人間を怠け者にしたのか」という疑問を考えてみたい。

コメント

タイトルとURLをコピーしました