警察官だって人の子──法を守る人間と、人情で動く人間の境界線

人の記憶

映画や漫画に登場する警察官を眺めていると、時々妙なことに気づく。

同じ警察官なのに、作品によって「正義の味方」にもなれば、「嫌な奴」にもなる。

警察内部の不正を調べる内務調査官などは、その典型かもしれない。

汚職刑事を追い詰める映画では、内務調査官は頼もしい正義の人間として描かれる。

ところが別の映画では、家族や病気を抱えた刑事を追及する冷たい存在として登場する。

では、どちらが正しいのだろう。

そもそも警察官とは、法律を守るためだけに存在する人間なのだろうか。

そんなことを考えているうちに、なぜか私は『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の両津勘吉を思い出した。

両津は警察官としては、かなり問題の多い人物である。

規則を破る。

金儲けを企む。

上司と喧嘩する。

始末書を書く。

それでも、町の人からは妙に愛されている。

なぜなのだろう。

その理由を考えていくと、以前耳にした、

「警察官だって人の子だ」

という言葉に行き着いた。

警察官も人間である。

家族がいる。

生活がある。

病気にもなる。

腹も立つ。

誰かを助けたいと思うこともある。

もちろん、だからといって法律や規則を破っていいわけではない。

しかし、法を守ることと、人間として誰かを守りたいと思うことが、いつも同じ方向を向いているとは限らない。

今回は、そんな「警察官の人間臭さ」を、映画と漫画を横道にそれながら考えてみたい。


正しい仕事なのに、嫌われ役になる

内務調査官の仕事は、警察官による汚職や不正を調べることだ。

一般市民からすれば、非常に重要な仕事である。

「仲間だから」という理由で警察官の犯罪を見逃してしまえば、警察組織そのものが腐ってしまう。

だから、警察官を取り締まる警察官が必要になる。

映画『Internal Affairs』では、まさにこの構図が描かれる。

内務調査官は腐敗した刑事を追い詰める。

観客から見れば、正義の側にいる人間だ。

ところが、映画が変わると同じ立場の人間が嫌な存在に見えてくる。

その違いは、観客が「誰の側から物語を見ているのか」によって生まれるのかもしれない。

腐敗した警察官を追及する映画なら、内務調査官は正義の人になる。

しかし、家族を守ろうとして追い詰められた警察官の映画なら、その同じ仕事が冷酷なものに見えてくる。

正しい仕事をしている人間が、物語の中では嫌われ役になる。

映画というものは、なかなか意地悪である。


家族を守るために「殉職」を考える警察官

そんなことを考えていると、戦場を経験した二人の刑事が登場する『Confidential Informant』という作品に行き着く。

二人は同じ戦場で戦った仲間で、一人は戦場で相棒に命を救われた過去を持っている。

ところが、その刑事が病気になり、家族の将来を考えるようになる。

そこで彼が考えてしまうのが、

「自分が職務中に殉職すれば、家族に残せるものがある」

という、あまりにも皮肉な選択だった。

生きて病気になったままでは家族を十分に守れない。

ところが、警察官として殉職すれば、遺族には給付が残る。

つまり、

生きているより、死んだほうが家族を守れる。

警察官という仕事を選んだ人間が、最後には自分の死まで家族の生活のために考えなければならなくなる。

ここまで来ると、単純な「善悪」の話ではなくなる。

その人間が不正を働いたとしても、なぜそこまで追い詰められたのかを考えたくなる。


「警察は警察の家族を助けない」

この映画でメル・ギブソン演じる警察幹部が語る、

「警察は警察の家族を助けない」

という趣旨の言葉も印象に残る。

これは、警察官同士が仲間を見捨てるという意味ではない。

むしろ、

命を張って仕事をしている警察官と、その家族を、組織は本当に十分に支えているのか

という皮肉なのだと思う。

警察官は人の命や財産を守る。

犯罪者を捕まえる。

事件が起きれば現場へ向かう。

しかし、その警察官自身にも家族がある。

病気にもなる。

生活にも困る。

子供の将来を心配する。

そして、死ぬこともある。

「正義を守る人間」という肩書きだけを見ていると、その制服の中にいる生活者としての人間が見えなくなる。


それでも内務調査官は必要になる

ただし、ここで内務調査官を悪者にしてしまうのも違う。

「家族のためだった」

「病気だった」

「生活が苦しかった」

「仲間を助けたかった」

どれも人間として理解できる事情だ。

しかし、それを理由に警察官の不正を許してしまえば、

「警察官なら事情があれば規則を破ってもいい」

ということになってしまう。

それでは警察組織そのものが成立しない。

だから内務調査官は嫌われても仕事をしなければならない。

ここに難しい問題がある。

内務調査官が間違っているとは限らない。

むしろ正しい仕事をしている場合もある。

ただ、その「正しさ」が、別の人間の立場から見ると非常に冷たく見えることがある。


そこで思い出す『こち亀』

こうした話を考えていると、なぜか『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の両津勘吉を思い出す。

両津と大原部長が喧嘩をする場面で、

「警察官だって人の子だ」

という趣旨の台詞が出てくる。

これが妙に印象に残っている。

『こち亀』は基本的にはギャグ漫画だ。

両津は短気で、欲も深い。

金儲けを企み、規則を破り、部長に怒鳴られ、始末書を書く。

警察官として見れば、かなり問題のある人物である。

それなのに、なぜか町の人間から愛されている。

その理由は、両津が単なる「交番勤務の警察官」で終わる人間ではないからではないだろうか。


両津は「放っておけない」

その性格がよく表れているのが、擬宝珠檸檬のエピソードだ。

幼稚園で飼っていたウサギが、不良集団によって遊び半分に殺されてしまう。

普通の警察官なら、まず事情を聞き、犯人を特定し、法律に基づいて処理する。

ところが両津は違う。

怒りが先に来る。

警察官としての立場や手続きを飛び越えて、不良集団に向かっていく。

そして彼らに謝罪させる。

もちろん、現実の警察官が私的な判断で暴力を振るうことを肯定するわけにはいかない。

両津の行動は、警察官として見れば問題がある。

しかし読者がそこで感じるのは、

「両津なら、そうするだろうな」

という妙な納得なのではないだろうか。

両津は、困っている人間を目の前にすると、損得を考える前に首を突っ込んでしまう。

それが騒動を大きくする原因にもなる。

しかし、その人情味が、同時に彼の魅力でもある。


法律上は正しくても、人間として冷たいことがある

ここが、内務調査官の話ともつながってくる。

内務調査官は、

「規則に従え」

と言う。

それは正しい。

一方、両津は、

「目の前で困っている人間を放っておけるか」

と動く。

これも、人間として理解できる。

では、どちらが正しいのか。

答えは簡単ではない。

法律を無視していいわけではない。

しかし、法律を守ってさえいれば、人間として正しいとも限らない。

この二つがぶつかったとき、人間は非常に難しい判断を迫られる。


両津が町の人に愛される理由

両津が町の人に愛されるのは、彼が優秀な警察官だからではない。

むしろ、警察官としては失敗も多い。

それでも、

「あの人なら、困ったときには何とかしてくれる」

という信頼がある。

これは「町のお巡りさん」という存在にも通じる部分があると思う。

住民が警察官に求めるものは、法律を説明してくれることだけではない。

困ったときに相談できる。

話を聞いてくれる。

自分たちの側に立ってくれる。

そういう、人間同士の信頼も含まれている。

両津は、その部分を極端な形で持っている。

だから、普段どれだけ滅茶苦茶なことをしていても、本当に困っている人間を前にすると、なぜか頼りになる。


「人情」と「規則」はどちらも必要

もちろん、両津のような警察官ばかりでは困る。

警察官が自分の感情だけで法律を運用したら、そこには別の危険が生まれる。

だから内務調査官のような存在も必要になる。

警察官が「人情」を理由に犯罪を見逃すことがないよう、組織を監視する人間が必要なのだ。

しかし同時に、警察官を単なる「法律を執行する機械」として扱ってしまえば、今度は現場の人間が疲弊する。

ここに難しい境界線がある。

規則だけでもいけない。
人情だけでもいけない。

人間が制度を運用する以上、この二つはいつもぶつかる。


警察官だって人の子

『Internal Affairs』では、警察内部の腐敗を追及する人間が正義になる。

『Confidential Informant』では、家族を守ろうとする警察官の事情が描かれる。

そして『こち亀』では、両津勘吉が騒動を起こしながらも、困った人間を放っておけない。

三つの作品は、それぞれ違う方法で同じ問題を見せているように思う。

警察官は、法を守る人間である。

しかし同時に、

警察官だって人の子である。

家族がいる。

感情がある。

弱さもある。

だからこそ厳しい規則が必要なのだろう。

そして同時に、その規則だけでは拾いきれない人間の事情について考える必要もある。

両津勘吉は、警察官としてはとんでもない男である。

しかし、町の人間が困っていると、なぜか放っておけない。

法律上の正しさだけを見れば、彼の行動には問題がある。

それでも、読者は彼を嫌いになれない。

そこに、人間が人間を信頼する理由があるのかもしれない。


結局、両津勘吉なのかもしれない

こうして映画から内務調査官の話を始め、警察組織と家族の問題を考え、法と人情の境界線まで話を広げてみた。

かなり難しい話になってしまった。

しかし、最後に思い出すのが両津勘吉なのだから、何とも締まらない。

いや、むしろこれでいいのかもしれない。

法律を守ることは大切だ。

組織の腐敗を防ぐことも大切だ。

警察官が規則を守ることも当然必要である。

それでも、人間は法律だけでは動かない。

困っている人間を見れば放っておけないこともある。

理屈より先に腹が立つこともある。

誰かのために無茶をしてしまうこともある。

両津勘吉という男は、その「人間臭さ」を極端な形で見せてくれる。

警察官としては問題だらけ。
でも、人間としては妙に頼りになる。

だから町の人間から愛される。

考えてみれば、これこそ「町のお巡りさん」に求められているものの一つなのかもしれない。

完璧な人間だから信頼されるのではない。

困ったときに、自分たちのために動いてくれる人間だから信頼される。

もちろん、現実の警察官に両津のような無茶を求めるわけにはいかない。

それでも、

「警察官だって人の子」

という言葉には、法律や制度の向こう側にいる「人間」を忘れてはいけないという意味があるように思う。

そして結局、ここまで難しい話をしておいて最後に残るのは、

「やっぱり両津勘吉、最高だな」

という、何とも締まらない結論だったりする。

……まあ、それもまた、『異民の苦楽詩』らしい着地点なのかもしれない。


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