人間の顔は一つではない──鬼平から、ねずみ大根と我が家の黒歴史へ

人の記憶

9月12日、時代劇専門チャンネルで『鬼平外伝 正月四日の客』が放送されていました。

正月の話を九月に見るというのも少し気が早いのですが、年末に向けた再放送ということで、久しぶりに流し見していました。

この作品で松平健さんが演じるのが、盗賊の首領「亀の小五郎」です。

ただの悪党ではありません。

「貧しき者からは盗らない、殺さない、犯さない」という盗人の掟を守っている。

義賊とも呼べるような男です。

しかし、盗人であることに変わりはない。

このあたりが、この作品の面白いところです。

人間には善い部分もあれば、悪い部分もある。

だからといって、悪い部分を帳消しにできるわけでもない。

亀の小五郎は、まさにその境目にいる人物でした。

ところが、彼をめぐって思わぬ誤解が生まれます。

かつて亀の小五郎から破門された盗賊の手下が、捕まった後に狂言を言い立てる。

その話を番屋の岡っ引きから聞いた蕎麦屋の主人が、怒りを募らせていくのです。

ここで少し意外なのは、主人が最初から「盗賊だから許せない」と思っていたわけではないことです。

盗賊であること自体は、それほど気にしていなかった。

ところが、女に非道な仕打ちをしたという話を聞いたことで、亡くなった母親の記憶と重なってしまった。

正月四日は、その母親の命日。

主人は毎年この日に、信州の「さなだ蕎麦」を作って母を偲んでいたのです。

だからこそ、その話が主人の心を逆撫でした。

自分の母親を奪った過去と、目の前の盗賊の話が重なってしまったのでしょう。

人間は、目の前の人物そのものを見ているようでいて、実際には自分の記憶や、誰かから聞いた話を通して相手を見ていることがあります。

今回の主人も、そうだったのかもしれません。

やがて、その話が手下の狂言だったことが分かります。

主人は自分が誤解していたことを知る。

しかし、それで亀の小五郎が無罪になるわけではありません。

義賊であっても、盗人は盗人。

罪は償わなければならない。

亀の小五郎は、最終的に打首獄門となります。

そして、その最後の牢へ主人が差し入れたのが「さなだ蕎麦」でした。

母親の命日に毎年作っていた蕎麦を、今度は自分が誤解していた男へ届ける。

許したのか。

詫びたのか。

それとも、ただ最後に人間として送りたかったのか。

そこまでは、はっきりとは描かれません。

だからこそ、余韻が残ります。

そして、この作品を見ていると、以前のことを思い出しました。

我が家でも、「さなだ蕎麦」をやってみようという話になったことがあります。

同居人と一緒にこの作品を見ていたとき、

「正月はこれでいこう」

ということになった。

そこで、劇中に登場する「ねずみ大根」を自家製で用意したのです。

ここまでは、実に風情のある話でした。

鬼平の世界を少しだけ我が家の食卓に持ってくる。

ところが、結果は見事に裏切られました。

辛い。

とにかく辛い。

薬味の辛さという領域を越えていました。

蕎麦そのものの風味が消え、大根の辛さだけが口の中に残る。

蕎麦を食べているのか、大根汁を飲んでいるのか分からない。

静かな江戸の蕎麦屋を再現するはずだったのに、気がつけば食卓は、飢えと寒さをしのぎながら囲炉裏を囲む『おしん』の世界です。

もちろん、本当に飢えていたわけではありません。

自分たちで好きこのんで、とんでもなく辛い大根を作っただけです。

それでも、つけ置きのように用意していた熱燗が、妙に優しい味に感じられたことだけは覚えています。

あれほど酒がありがたいと思った蕎麦もありません。

亀の小五郎にとっては、「さなだ蕎麦」は最後に差し入れられた救いのような一杯だったのでしょう。

私たちにとっては、忘れ難い黒歴史です。

それ以来、我が家ではねずみ大根を栽培しなくなりました。

年越し蕎麦も、いつの間にか「どん兵衛天ぷら蕎麦」が定番です。

安全第一です。

ただ、今になって考えてみると、あのねずみ大根にも言い分があったのかもしれません。

植物は動くことができません。

食べられそうになっても逃げられない。

ならば、辛くなって、

「生半可な気持ちで俺を食うな!」

とでも言いたかったのではないでしょうか。

『正月四日の客』の亀の小五郎ならぬ、我が家の「鼠の小五郎」。

なかなか辛辣な奴でした。

そして、ここまで書いていると、なぜか猫の話まで出てきます。

その後、我が家では猫を飼うようになりました。

これにも、何かいわくがあったのかもしれません。

猫もまた、人間の思い通りにはなりません。

甘えていると思ったら突然気まぐれになる。

大人しくしていると思ったら、こちらの予定を狂わせる。

こちらが「猫とはこういうものだ」と思っていても、本人には本人の都合がある。

つまり、こちらから見えている顔だけでは分からない。

そして現在、我が家には、そのことを身をもって教えてくれる危険分子がいます。

鈴の音を高らかに鳴らしながら、階段を駆け上がってくる。

「ジョリの毒郎」です。

かつて同居人を病院送りにした実績を持つ男。

そんな奴が、何食わぬ顔で私の膝に乗ってきます。

ゴロゴロと喉を鳴らしている。

見るからに甘えている。

しかし私は、心のどこかで警戒しています。

「こいつは、いつ噛むのだろう……」

そう思いながら、なぜか膝から降ろさない。

むしろ撫でている。

恐れているのに、膝に乗せている。

何とも矛盾した関係です。

こうして考えてみると、私自身も『鬼平外伝』の登場人物たちと、それほど変わらないのかもしれません。

何かの裏側が気になる。

目の前のものだけでは信用しきれない。

人間の顔は一つではないと思いながら、今度は大根や猫の顔まで疑っている。

私はどうやら、

様々な出来事の裏側に怯える、ケチな存在なのです。

それでも、気になったものから離れられない。

怖いものほど、なぜか近くに置いてしまう。

そして、そんな話を同居人にしてみました。

「今度、『正月四日の客』が再放送されるよ」

すると、なぜか言葉を濁します。

見ないとも言わない。

見たいとも言わない。

何となく話をそらす。

どうやら、同居人の中にも「さなだ蕎麦」の記憶は残っているようです。

亀の小五郎にとっては、最後に届けられた一杯。

私たちにとっては、できれば思い出したくない一杯。

同じ「さなだ蕎麦」なのに、これほど意味が違う。

人間の顔は一つではない。

大根の顔も一つではない。

そして、猫の顔も一つではない。

たぶん、同居人の顔にも一つくらいは、私には見せていない顔があるのでしょう。

そう考えていると、また階段から鈴の音が聞こえてきます。

チリン、チリン……。

ジョリの毒郎です。

私は少し身構えます。

それでも、膝を空けてしまう。

今年の年越し蕎麦は、どん兵衛でいい。

ねずみ大根は、もう十分です。

鬼平の世界では、さなだ蕎麦が最後の情を残しました。

我が家では、どん兵衛が静かな年越しを残してくれる。

それくらいが、どうやら我が家にはちょうどいいようです。


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