愛媛県の言葉に、「帰って来ます」という表現がある。
私はこの言葉を、少し特別なものとして受け取ってきた。
もちろん、文字だけを見れば「帰る」という意味である。
しかし、私の感覚では、それだけではない。
「今日はここで別れますが、また明日やってきます」
そんな時間の余白まで含んだ言葉のように感じていた。
だから私にとって「帰って来ます」は、とても便利な言い回しだった。
その場を離れることを伝えながら、別れを完全には終わらせない。
「それでは今日はここまでです。また明日お目にかかりましょう。では、さようなら」
平日のテレビ番組の最後に交わされる挨拶にも、どこか似ている。
「帰ります」と言い切ってしまえば、その場との関係までそこで終わってしまうようにも聞こえる。
けれど、「帰って来ます」なら、いったん離れるだけである。
また戻ってくる。
そんな感覚が残る。
ところが、この言葉は県外の人には、必ずしも同じようには伝わらないらしい。
以前、こんな話を聞いたことがある。
県外の仕事で関係した会社の方の家に招かれ、食事をご馳走になった人がいたという。
十分にもてなしてもらい、帰る際に、その人はお礼の気持ちも込めて、
「では、帰って来ます」
と口にした。
ところが、それを聞いた相手の顔色が変わった。
「帰って、また来るのか?」
「これだけご馳走したのに、まだ何か足りないのか?」
どうやら「帰って来ます」という言葉が、「一度帰宅して、またこの家にやって来ます」という意味に受け取られてしまったらしい。
私はこの話を聞いたとき、少し不思議な気持ちになった。
私の中では、そんな意味にはならないからである。
「帰って来ます」は、再び食事をご馳走してもらいに来るという宣言ではない。
その場を離れる際の挨拶であり、「またどこかでお会いしましょう」という程度の柔らかな余韻なのである。
もっとも、これはあくまで私自身の感覚である。
方言や地域の言葉は、同じ日本語であっても、育った場所や家庭によって微妙に違う。
だから、どちらが正しいという話でもない。
言葉とは、辞書に書かれた意味だけで動いているものではないからだ。
そんなことを考えていたある日、何気なく見ていたテレビ番組で、思わぬ場面に出会った。
ケンドーコバヤシさんの「ほろ酔いビジホ泊」で、沖縄県名護市を訪れていたときのことである。
1階が居酒屋、2階が焼肉屋という建物で酒を楽しんでいた。
そして、1階から2階へ移動する際、ケンコバさんが「帰って来ます」と言っていた。
私は思わず、
「あれ?」
となった。
私はこれまで、「帰って来ます」という言い方を、愛媛の言葉として捉えていたからである。
ところが、関西出身のケンコバさんも、ごく自然にその言葉を使っている。
しかも面白いことに、遠くへ行くわけではない。
同じ建物の1階から2階へ移動するだけである。
それでも「帰って来ます」と言う。
この場面を見て、私は少し考え方を変えた。
もしかすると、「帰って来ます」は愛媛だけの特殊な言葉として考えるよりも、もっと広い範囲に存在する「帰る」という感覚なのではないだろうか。
「帰る」という言葉は、単純に自宅へ向かうことだけを意味するわけではない。
「故郷へ帰る」
「店へ帰る」
「いつもの場所へ帰る」
そんな使い方もある。
つまり、「帰る」とは単なる移動ではなく、「自分が戻る場所」を示す言葉なのかもしれない。
そう考えると、1階から2階へ移動するだけなのに「帰って来ます」という言葉も、それほど不思議ではなくなる。
一度その場を離れる。
しかし、自分の居場所はそこにある。
だから、また戻ってくる。
「帰って来ます」という言葉には、そんな感覚が含まれているのかもしれない。
そして、そう考えていると、もっと身近なところに「帰って来ます」を繰り返している連中がいることに気づいた。
我が家の猫たちである。
猫たちは一日のうちに、何度も1階と2階を行き来する。
2階へ上がったと思ったら、しばらくして1階へ戻ってくる。
また2階へ行く。
そして、また1階へ帰って来る。
人間なら「上がった」「降りてきた」と表現するところだが、猫を見ていると、どうも「帰って来た」と言いたくなる。
なぜなら、猫にとって1階も2階も自分たちの家だからである。
どちらか一方が目的地で、もう一方が出発点というわけではない。
そのとき自分がいた場所から離れ、また自分の好きな場所へ戻ってくる。
猫にとって家とは、一つの場所ではなく、あちこちに「帰る場所」が存在する空間なのかもしれない。
そう考えると、「帰る」という言葉も、ずいぶん曖昧である。
人間は「どこへ行ったのか」「どこから戻ってきたのか」と区別したがる。
しかし猫たちは、そんなことをいちいち考えてはいない。
1階にいたければ1階へ行く。
2階にいたければ2階へ行く。
そして、また戻ってくる。
場合によっては、何度も繰り返す。
つまり我が家では、「帰って来ます」という言葉を、一番忠実に実践しているのは人間ではなく猫たちなのかもしれない。
もちろん、猫たちは「帰って来ます」と口にすることはない。
そもそも、帰ることを誰かに報告する必要もない。
ただ、自分の好きな場所へ行き、自分の好きな場所へ戻ってくる。
それだけである。
けれど、その姿を見ていると、「帰る」とは必ずしも自宅へ戻ることではないように思えてくる。
自分が落ち着ける場所。
自分を受け入れてくれる場所。
そして、また戻りたいと思える場所。
そこへ戻ってくることを、人間は「帰る」と呼んでいるのかもしれない。
「帰って来ます」という一言も、そう考えれば単なる移動の報告ではなくなる。
「私はここを離れます。でも、ここへ戻ってきます。」
そこには、場所との関係だけでなく、人との関係や時間のつながりまで含まれている。
明日かもしれない。
少し先かもしれない。
あるいは、いつになるか分からない。
それでも「帰って来ます」と言える。
私はこれまで、この言葉を愛媛の言葉として受け取っていた。
ところが、沖縄のホテルで関西出身のケンコバさんが1階から2階へ移動する際に使っているのを見て、その感覚が少し揺らいだ。
言葉というものは、県境ほどきれいには分かれていないのかもしれない。
そして今日も我が家では、猫が一匹、2階へ上がっていく。
しばらくすると、また1階へ帰って来る。
何事もなかったような顔をして、飯を食う。
またしばらくすると、今度は2階へ行く。
どうやら「帰って来ます」という言葉を最も自由に使いこなしているのは、方言を知らない我が家の猫たちらしい。
言葉を持たない猫たちが、「帰る」ということだけは、人間よりもずっと正確に理解しているように見える。
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何気なく交わしている挨拶も、土地が変わればまったく違う意味に受け取られることがあります。愛媛で当たり前に使っていた一言が、県外では思いもよらない誤解を招いた――。今回は、「帰って来ます」という言葉に込められた時間の感覚と、人それぞれの受け取り方の違いについて綴ってみたいと思います。
「人はなぜ他人の人生に興味を持つのか」



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