魅+夜話 第14話 熊さんの話

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🐻 熊さんと、渡せなかった黒いボータイ

面白いのは、その人を思い出すとき、料理の味ではなく別のものが先に浮かぶことだった。

スパゲティの味ではない。

体格。

短い髪。

よく通る声。

そして、白いシャツ姿。

料理よりも先に、その人の“輪郭”のようなものが記憶の中に立ち上がってくる。

人は案外、店そのものではなく、そこにいた人間を覚えているのかもしれない。


豚太郎で働いていた店長を、別の店で見かけたことがある。

そのとき少し驚いた。

そこは、ラーメン屋ではなく、スパゲティを出す少し洒落た店だったからだ。

記憶の中のその人は、がっしりした体格に短髪。

店内に響くような声で、忙しそうに動き回っていた。

どちらかと言えば、町中華の熱気が似合う人だった。


ところが、その人は白いシャツに黒いズボンを身につけ、落ち着いた店内を自然に歩いていた。

不思議なことに違和感はなかった。

むしろ、その姿のほうがしっくり来るようにさえ思えた。

店は変わっていた。

ラーメンからスパゲティへ。

赤いネオンから、柔らかい照明へ。

それでも、その人が店の空気を支えていることだけは、何も変わっていなかった。


考えてみれば、常連客が覚えているのは料理だけではない。

声の調子。

注文を取る仕草。

厨房と客席を行き来する足取り。

そういった断片が、店の記憶を形作っている。

そして何年も経った後、不意にその人を思い出すと、その店の空気まで一緒に戻ってくる。

私にとって、その店長はまさにそういう存在だった。


私は勝手に、その人を「熊さん」と呼んでいた。

本人が知れば、少し迷惑だったかもしれない。

もちろん、一度も口に出したことはない。

ただ、がっしりした体格と短髪、そしてどこか人のいい雰囲気が、昔話に出てくる熊のように思えたのだ。

白いシャツに黒いズボンで店内を歩く姿は、不思議とよく似合っていた。


そのうち私は、さらに勝手な想像をするようになった。

この人には黒いボータイが似合うのではないか、と。

それも派手なものではない。

少し古い映画に出てくるような、控えめな蝶ネクタイだ。

もちろん、渡したことはない。

そもそも客と店員の関係で、そんな機会があるはずもなかった。

それでも店に行くたび、心の中でだけ思っていた。

「熊さん、これ似合うんじゃないか」と。


やがて、その店はなくなった。

店がなくなれば、そこで働いていた人も、それぞれ別の場所へ散っていく。

だから今、私の中には渡されることのなかった黒いボータイだけが残っている。


考えてみれば、人生にはそういうものが多い。

渡せなかった言葉。

渡せなかった贈り物。

言いそびれた感謝。

形にならなかったままの気持ち。


その黒いボータイもまた、そのひとつなのだろう。

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