テレビの音量について考えていた。
私が使っているのは、シャープのAQUOS「LC-22K20」。
2014年発売の機種なので、現在のテレビと比べれば、かなり旧式に近い。
それでも、今のところ買い替える理由はない。
画質にこだわっているわけでもない。音質にこだわっているわけでもない。
そもそも私は、テレビを映画館のように正面からじっくり観ることのほうが少ない。
何かをしながらテレビをつけている。
ニュースを流し、旅番組を流し、バラエティーを流す。
いわゆる「流し見」である。
だから、最新型のテレビがどれほど高画質になっていて、どれほど音がクリアになっていたとしても、
「そこまで必要なのだろうか」
と思ってしまう。
いちいち新型に変えていたら、生活ができない。
音量20は大きいのか
私のAQUOSは、普段、音量20前後で使っている。
数字だけを見れば、「結構大きい音なのでは?」と思われるかもしれない。
しかし、テレビの音量表示というものは、それだけで実際の音の大きさを表しているわけではない。
昼間なら、外から車やバイクの音が聞こえる。
エアコンも動いている。
家の中にも、いろいろな生活音がある。
そうなると、音量10程度ではテレビの音が背景に埋もれてしまう。
特に困るのが、人の声だ。
音楽や効果音は聞こえているのに、肝心のセリフが聞き取りにくい。
そこで音量を上げる。
ところが夜になると、事情が変わってくる。
外の音が減り、周囲が静かになる。
すると、昼間には普通だった音量20が、夜には妙に大きく感じられる。
テレビの音量表示は同じ20なのに、周囲の世界が変わるだけで、その音の存在感まで変わってしまう。
考えてみれば当たり前のことなのだが、テレビの音量はテレビだけで決まっているわけではない。
その部屋にどれだけ音が存在しているのか。
昼なのか、夜なのか。
エアコンが動いているのか。
窓の外が静かなのか、騒がしいのか。
そうした環境によって、同じテレビの音でも聞こえ方は変わる。
テレビを「観ている」とは限らない
現在もアニマックスでは、『ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン』が流れている。
この作品も、もう何度観たか分からない。
そのため、画面をずっと見ている必要がない。
声優さんのセリフが聞こえてくるだけで、頭の中に場面が浮かんでくる。
「ああ、このセリフのところか」
と思えば、その場面が分かる。
そして、
「このあと、あれが来るな」
と、次の展開まで頭の中で再生される。
初めて観たときは、
映像を見る → セリフを聞く → ストーリーを理解する
という順番だった。
しかし、何度も観た作品になると、
セリフを聞く → 記憶が反応する → 頭の中に映像が浮かぶ
という順番になる。
つまり私は、テレビの画面を見ていなくても、頭の中では作品を観ているのである。
こうなると、テレビに求めるものも変わってくる。
最新型の高画質である必要はない。
最新型の高音質である必要もない。
最低限、セリフが聞こえればいい。
何度も観た作品なら、それだけでだいたい物語が分かる。
そして、何度も観ていると妙なところに気づく
ところが、同じ作品を何度も流し見していると、別の現象も起こる。
ストーリーそのものには驚かなくなってくるので、今度は登場人物の動きやデザインなど、妙なところが気になり始める。
今回、ふと気になったのがブッチ神父の新しいスタンド、メイド・イン・ヘブンである。
初めて見たときには、普通に「プッチ神父が馬に乗っている」のだと思っていた。
ところが、よく見ると違う。
あれは馬に乗っているのではなく、下半身そのものが馬になっている。
「そういうデザインだったのか」
と、何度も観ている作品だからこそ、今さら気づいた。
そして、さらに余計なことを考えてしまった。
普通に考えれば、ケンタウロスのような形にしたほうが、もっと分かりやすく格好良かったのではないか。
人間の上半身に馬の下半身。
それなら、誰が見てもケンタウロスである。
ところが、メイド・イン・ヘブンは少し違う。
人間と馬が一体化しているようで、どこか身体の構造が妙に見える。
しかし、これも考えてみれば、ジョジョらしいのかもしれない。
完全なケンタウロスにしてしまえば、四本の脚で身体が安定してしまう。
そうなると、ジョジョ独特の、あの「どうやってその姿勢を取っているのか分からない」ポーズが成立しにくくなる。
あえて身体を不安定にしているのは、ジョジョ立ちまで含めたデザインなのではないか。
……などと考えていたら、さらに昔の記憶が蘇ってきた。
昔のコントなどで、人間が腰から下に馬のような着ぐるみを履き、まるで馬に乗っているように見せるものがあった。
それを思い出してしまったのである。
最初は「ケンタウロスのほうが格好いいのでは?」と思っていたのに、最後には、
「これ、昔のコントの『着る馬のパンツ』みたいではないか」
という、どうでもいいところに着地してしまった。
何度も観ているアニメというものは恐ろしい。
最初は作品の世界観に圧倒されていたのに、繰り返し観ているうちに、こんなところにまで目が行くようになる。
新型テレビが必要とは限らない
最近のテレビは、画質も音質も大きく進化している。
人の声を聞き取りやすくしたり、番組の内容に合わせて音を調整したり、映像や音響をAIで最適化したりする機能まで登場している。
技術としては非常に面白い。
しかし、
技術が進歩したことと、自分の生活にその性能が必要かどうかは別の話である。
映画をじっくり観る人なら、高画質や高音質には大きな価値があるだろう。
スポーツを大画面で楽しむ人なら、最新型のテレビに買い替える意味もある。
しかし、私のようにテレビを流しながら別のことをしている人間にとっては、壊れていないテレビが今日も普通に動いていることのほうが重要だったりする。
「最新型だから良い」のではない。
自分の生活に必要な役割を果たしているかどうか。
それだけである。
物の古さと、役割の古さは違う
家電は次々と新しくなる。
新しい機能が追加され、画質も音質も向上する。
しかし、新型テレビが発売されたからといって、昨日まで普通に働いていた古いテレビが突然役に立たなくなるわけではない。
ニュースは映る。
アニメも映る。
セリフも聞こえる。
何度も観た作品なら、声を聞くだけで場面まで思い出せる。
それなら、まだ十分に現役である。
むしろ変わったのは、テレビそのものではなく、テレビとの付き合い方なのかもしれない。
昔は「テレビを観る」と言った。
今の私は、「テレビをつけておく」と言うほうが近い。
テレビは主役ではない。
しかし、完全な脇役でもない。
食事をしている横でしゃべっている。
何か作業をしている横で物語が進んでいる。
夜になれば、静かになった部屋の中で、その声だけが少し目立つ。
そして、何度も観た作品なら、画面を見なくても記憶が続きを教えてくれる。
テレビはいつの間にか、
「観るもの」から「暮らしの音」になっていた。
最新型のテレビなら、もっと美しい映像でメイド・イン・ヘブンを観られるのかもしれない。
しかし私には、声が聞こえれば、その姿までだいたい頭の中に浮かぶ。
そして何度も観ているうちに、
「……これ、馬に乗っているんじゃなくて、馬のパンツを履いているように見えるな」
などという、まったく必要のない発見までしてしまう。
生活とは、案外こういうものである。
新しいものを次々と買い揃えなくても、今あるものと記憶と少しの雑談だけで、それなりに楽しめる。
いちいち新型に変えていたら、生活ができない。
だから今日も、古いAQUOSから聞こえてくる声を半分だけ聞きながら、私は別のことをしている。
画面を見なくても、次に何が起こるのかは、だいたい分かっている。



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