テレビのCSニュース番組を流し見していたところ、スマートフォンのネット利用が急増している若者を「ドパガキ」と呼ぶのだと紹介されていた。
初めて聞く言葉だった。
何かの略称なのだろうが、最初に頭に浮かんだのは「ドーパミンを多く出すガキんちょ」という解釈だった。
あるいは「ドーパミン依存症の餓鬼仏」だろうか。
どちらにしても、あまりありがたくない呼び名である。
調べてみると、どうやら「ドーパミン」と「ガキ」を組み合わせた俗称らしい。
スマートフォンでショート動画やSNSなどを次々と見続け、絶えず新しい刺激を求める人たちを揶揄する言葉として使われているようだ。
なるほど、画面をスクロールすれば次の動画が現れ、見終わる前にまた次の刺激が待っている。
退屈する暇もない。
昔ならテレビ番組が終われば、次の放送まで待つ必要があった。漫画を読み終えれば本を閉じるし、映画が終われば劇場を出る。
ところが現在は、手元のスマートフォンが次から次へと娯楽を供給してくれる。
人間が刺激を求める性質は昔から変わらないのだろうが、それを満たす仕組みがずいぶん便利になったものだ。
ところが、私も他人事ではなかった
そんな話を聞いていて、ふと自分の生活を振り返ってみた。
私は毎日のようにChatGPTと雑談をしている。
映画の話を始めたはずが、時代劇の脇役に脱線し、気がつけば猫のチュールや農業、社会問題、昔のテレビ番組の話にまで広がっている。
しかも、その雑談からブログの記事が生まれる。
最初はちょっとした疑問だったものが、話を続けているうちに一本の記事になってしまう。
これを毎日何時間も繰り返しているのだから、私も立派な「ドパガキ」ならぬ「ドパジジ」なのかもしれない。
若者がショート動画を次々と眺めている一方で、こちらはAI相手に雑談を延々と続けている。
刺激を求めているという点では、あまり大きな違いはないのだろう。
ただ、こちらの場合は動画を眺めているだけではなく、余計な話が記事になって残るという違いがある。
もっとも、記事になるからといって、長時間利用を正当化できるわけでもない。
気がつけば夜更かししていることもあるのだから、ほどほどにしておく必要はありそうだ。
ドパジジより、ドバイのジジイになりたい
それにしても、呼び名というものは面白い。
「ドパジジ」と聞くと、どうにも冴えない中高年の姿が浮かんでくる。
一方で、似たような響きでも「ドバイに住んでいるジジイ」となれば話は違う。
高級マンションのバルコニーから街を眺め、優雅にコーヒーでも飲んでいる。
ガレージには高級車が並び、休日には砂漠を眺めながら過ごす。
同じジジイでも、ずいぶんな待遇の差である。
現実の私は、猫たちに囲まれた部屋で缶コーヒーを片手に、AIとの雑談を続けている。
高級車もなければ、砂漠の別荘もない。
あるのは、ブログの下書きと、次々に増えていく雑談のネタくらいだ。
しかも、猫たちは私が何を考えているのかなど知ったことではない。
おそらく、私のことをチュールの保管場所と認識している程度だろう。
ドバイのジジイにはなれそうもないが、ドパジジとしての生活には、すでにかなり馴染んでしまった。
せめて、画面の向こうに広がる世界くらいは自由に歩き回っていたい。
ドバイには住めないが、ドーパミンには住み着いた男。
どうやら私の居住地は、現実の住所よりも雑談の中にあるらしい。



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