さとのか4Kで『トヨタ博物館 時代を越えたクルマたち』を流し見していたら、スカイライン2000GTが映っていた。
いわゆる「ハコスカ」である。
同居人が欲しがっている車で、家にはプラモデルまである。スカGなどとも呼ばれ、なかでもGT-Rは映画などにも登場する有名なモデルだ。
私には、その魅力がいまひとつ分からない。
そんな話をしていた翌日、贈り物の酒を買いに行く同居人に付き合い、助手席に張り付いていた。
すると帰り際、昔のスカイラインが二台続けて走ってきた。
同居人は「カッコいい」の連続である。
どうやら実物を目の前にすると、プラモデルとはまた違った感慨があるらしい。
聞けば、現在では一千万円近い価格になる車もあるという。
一千万円。
私の頭には、映画『パルプ・フィクション』でビンセントがバニラシェイクの値段に文句をつける場面が浮かんできた。
酒も入っていないのに、バニラシェイクが五ドルもするのか。
私なら、こう言いたい。
「自動運転でもない。エアコンもない。それで一千万円もするのか?」
もちろん、旧車には希少性や歴史的価値がある。長年大切にされてきた車を所有する喜びもあるのだろう。
しかし、私が車に求めるものは、どうもそこではないらしい。
車内の臭いと、鉄の檻
そもそも私は、昔の車の内部に独特の臭いがあったような記憶がある。
シートなのか、ゴムなのか、内装材なのか。あるいは煙草の臭いが染みついていたのかもしれない。
正体は分からないが、狭い空間に閉じ込められるような感覚と一緒になって、あまり好ましくない記憶として残っている。
レーシングカーになると、さらに事情が違う。
内部にはロールケージと呼ばれる鋼管の骨組みが張り巡らされている。衝突や横転から乗員を守るためのものだが、私にはどうにも鉄の檻に見えてしまう。
安全のために人間を守る構造なのは分かる。
しかし、身体をシートに固定され、周囲を鉄骨で囲まれた空間に入るのは、私の性分には合わない。
外から眺めれば格好いい。
ところが中に入れば、どうなのだろう。
見た目と居住性は、必ずしも比例しないのである。
私が欲しいのはボスロボットのコクピット
そんな私が望むのは、『マジンガーZ』に登場するボスロボットのようなコクピットだ。
畳があって、ちゃぶ台があって、ゆっくり座れる。
出撃命令が出ても、食事中なら少しくらい待ってもらいたい。
「ちょっと待ってくれ。今、飯を食っているから」
そんな余裕のある車内がいい。
もちろん、現実の車で走行中にちゃぶ台を囲んで食事をするなら、安全面の問題はある。実現するには、乗員の保護や車内設備など、いろいろな課題を解決しなければならない。
それでも、車の中を運転するためだけの場所にしておく必要はないだろう。
かなり昔、東京モーターショーで見た展示車が印象に残っている。
バスのような外観なのに、内部は店舗のボックス席のような造りになっていた。
車名までは覚えていないが、あれを見たとき、私は「これは車というより、移動する空間なのではないか」と思った。
人間を目的地まで運ぶだけではなく、移動中に別の仕事をしたり、打ち合わせをしたり、休憩したりする。
車体そのものを、一つの部屋として使う発想である。
私は、ああいう車のほうに魅力を感じる。
車が嫌いなのではなく、運転が煩わしい
私は車そのものが嫌いなわけではない。
ただ、現代の道路事情を考えると、運転には煩わしいことが多すぎる。
信号、渋滞、車線変更、右左折、歩行者、自転車、駐車場所の確保。
周囲の状況に気を配りながら、安全に車を動かし続けなければならない。
少し遠くへ出かけるだけでも、相応の注意力を使うことになる。
そこで期待したいのが、完全自動運転である。
人間が運転を機械に任せられるようになれば、車内の設計も変わるのではないだろうか。
現在の車は、運転席を中心に作られている。
前を見る。ハンドルを握る。ペダルを踏む。
しかし、人間が運転しなくてよくなれば、車内の空間を別の目的に使えるようになる。
仕事をする。
本を読む。
映画を見る。
食事をする。
疲れたら休む。
もちろん、完全自動運転が実現しても、安全上の条件や利用できる道路などの制約は残るだろう。それでも、車が単なる移動手段から、移動中に過ごすための空間へ変わっていく可能性はある。
一千万円なら、キャンピングカーが欲しい
正直なところ、旧車に一千万円をかけるくらいなら、私は最新型のキャンピングカーを考えてしまう。
もちろん、車種や装備によって価格は違うし、同じ予算で必ず希望どおりの車が買えるわけではない。
それでも、私にとっては、過去の名車を所有することよりも、快適に過ごせる空間を手に入れることのほうが魅力的だ。
畳があってもいい。
ちゃぶ台があってもいい。
タブレットを置いて、ブログの記事を書いたり、AIと雑談したり、外の景色を眺めたりする。
運転は車に任せ、自分は自分の時間を過ごす。
私が欲しいのは、速さや馬力を誇る車ではない。
移動しながら、自分の時間を取り戻せる車である。
車は家の代わりになるのだろうか
ところが、ここで別の疑問が出てくる。
最近の車は、ものによっては戸建て住宅に手が届きそうな価格になっている。
それだけ高価な車があり、キャンピングカーなら寝泊まりできる設備まで備わっている。
それでも、車を持っているだけで住まいがあることにはならない。
車内で寝られることと、社会の中で住所を持つことは別の話だからだ。
住民登録や住所の扱いは、実際の生活の本拠などに関わる問題であり、高価な車を所有していることだけで解決するわけではない。
物理的には暮らせそうな空間がある。
ところが、社会の仕組みの中では、それだけで住まいとして認められるわけではない。
一千万円の車を所有していても、住所の問題が自動的に解消されるわけではないのだ。
考えてみれば、不思議な話である。
走る一戸建てが欲しい
私が望んでいるのは、長屋のような車ではない。
以前、違法建築の長屋にいた隣人のような存在まで一緒についてくるのは御免である。
欲しいのは、独立した一戸建てが、そのまま走り出すようなものだ。
居住性はボスボロット。
空間は一戸建て。
運転はAI。
これが実現すれば、車に対する価値観も変わるかもしれない。
一千万円のハコスカをガレージに置き、その姿を眺めて楽しむ人がいる。
一千万円のキャンピングカーで旅をする人もいる。
そして私は、畳とちゃぶ台を備えた自動運転車の中で、缶コーヒーを飲みながら、どうでもいい話をしていたい。
昔の名車を見て「カッコいい」と思う気持ちは否定しない。
ただ、私にとって車の価値は、ボディの造形や希少性だけでは決まらない。
車がどれほど高価になっても、運転の煩わしさが残るのなら、私の望む未来とは少し違う。
一千万円の名車より、自由に過ごせる移動空間。
どうやら私は、車が欲しいというより、車の中にまで自分の居場所を持ちたいらしい。
そしていつか、高速道路を走る車内で一家がちゃぶ台を囲み、夕食を食べる時代が来るのだろうか。
その横をハコスカが颯爽と追い抜いていく。
私は窓の外を眺めながら、こうつぶやく。
「格好いいですね。ところで、うちの車にはエアコンが付いていますよ」
それくらいの余裕が、私にはちょうどいい。



コメント