「猫は単独で生きる動物だから、協調性はない。」
そんな話を耳にすることがある。
確かに犬のように群れで行動する動物ではない。
だからといって、周りを見ていないわけでもない。
長年猫たちと暮らしてきて思うのは、猫にも「空気を読む猫」と「読まない猫」がいるということだ。
我が家のコリンは、その代表格である。
他の猫が眠っている時間を見計らって二階へやって来る。
誰もいない静かな空間で自由に歩き回り、満足すると、また静かに去っていく。
争いを避けているのか、それとも偶然なのか。
本人に聞くことはできないが、結果として揉め事に巻き込まれることは少ない。
月丸もまた、周囲をよく見ている猫だ。
誰かが休んでいる場所へ無理に割り込むことはない。
甘えたい時は自分から近づくが、相手がその気でなければ、あっさり引き下がる。
その姿を見ていると、「相手にも都合がある」ということを知っているようにさえ思える。
ところが徐倫は違う。
月丸がいる。
それだけで一直線に向かっていく。
相手が眠っていようが、一人になりたかろうが、お構いなしである。
その結果、「シャー!」という一喝を浴びることもしばしばだ。
本人は毎回「なぜなんだ?」という顔をしている。
悪気など、まったくない。
ただ、自分の気持ちに正直すぎるだけなのだ。
そんな徐倫を見ていると、「空気を読めない猫」という言葉が頭に浮かぶ。
しかし、しばらく眺めているうちに、別のことも考えるようになった。
本当に空気を読むことだけが正しいのだろうか。
人間社会では、「空気を読め」という言葉をよく耳にする。
場の雰囲気に合わせること。
周りに迷惑をかけないこと。
それは確かに大切なことだ。
けれど、空気ばかり読んでいると、自分の気持ちまで押し込めてしまうこともある。
その点、徐倫は実に分かりやすい。
好きだから近づく。
遊びたいから鳴く。
甘えたいから寄り添う。
失敗して叱られても、翌日にはまた同じことを繰り返している。
効率だけを考えれば、不器用な生き方なのかもしれない。
それでも、その真っ直ぐさには、どこか憎めないものがある。
一方で、コリンや月丸のように、周囲との距離を上手に測れる猫がいるからこそ、猫たちの暮らしは穏やかに保たれているのも事実だ。
結局のところ、どちらが正しいという話ではないのだろう。
空気を読める猫がいて、読めない猫がいる。
慎重な猫がいて、大胆な猫がいる。
それぞれ違うからこそ、毎日の暮らしは面白い。
人間も同じなのかもしれない。
誰もがコリンのように立ち回れるわけではない。
誰もが徐倫のように真っ直ぐでもない。
相手の気持ちを考えることも大切なら、自分の気持ちを素直に伝える勇気もまた大切なのだ。
今日も我が家では、空気を読む猫と、読まない猫が、それぞれ自分らしく暮らしている。
その姿を眺めながら、私は思う。
猫たちは「みんな違って当たり前」ということを、人間よりずっと自然に受け入れているのではないだろうか。
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猫たちは、それぞれ性格も、行動も、物事の受け止め方も違います。
空気を読む猫もいれば、自分の気持ちに真っすぐな猫もいる。その違いを見ているうちに、大切なのは「同じであること」ではなく、「違いを受け入れながら暮らしていくこと」なのだと気づかされます。
次の記事では、そんな猫たちの姿から見えてきた「夫婦」という不思議な関係について、少し考えてみたいと思います。


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