ザ・シネマで偶然流れていた映画『トランスフュージョン』を、半ば流し見のように眺めていた。
派手な作品ではない。
銃も出るし、暴力的な場面もある。
それなのに観終わった後に残ったのは、発砲音ではなく沈黙だった。
気づけば画面から目が離せなくなっていた。
噛み合わない時間から始まる
物語の序盤では、ある親子の時間が描かれる。
本来なら距離が縮まってもおかしくない場面なのに、どこかぎくしゃくとした空気が流れている。
会話はある。
しかし感情までは届かない。
父は感情を抑え、息子も深く踏み込まない。
そこには大きな衝突もなければ、感動的な和解もない。
ただ、お互いが一定の距離を保ちながら向き合っている。
この映画は、その不器用な距離感から始まる。
再生しきらない誠実さ
この作品の魅力は、物事がきれいに整理されないところにある。
完全な救済は訪れない。
傷が消えるわけでもない。
過去が帳消しになるわけでもない。
それでも人は生きていく。
現実の人生も案外そんなものなのかもしれない。
すべてが解決することよりも、抱えたまま前へ進むことの方が多い。
だからこそ、この映画には妙な説得力があった。
それぞれが抱えているもの
登場人物たちは多くを語らない。
事情を説明しない。
自分の正しさを弁明しない。
理解されることを過度に求めない。
その姿は冷たく見えるどころか、むしろ一種の矜持のように映った。
何もかも他人に預けてしまえば、生き方そのものが他者任せになってしまう。
支え合うことと依存すること。
その境界線は思っている以上に曖昧だ。
親子もまた、その境界線を探りながら立っているように見えた。
観察しながら生きるということ
私は現在、同居人と上下階で生活している。
昼型と夜型で生活時間はほとんど重ならない。
それでも気配だけは分かる。
以前の私は、人との関係に答えを求めすぎていた気がする。
しかし最近は少し違う。
相手を変えようとするのではなく、観察する。
すべてを抱え込むのでもなく、結果を急いで求めるのでもない。
自分の核だけは手放さず、その先は時間に委ねてみる。
そんな感覚を覚えるようになった。
『トランスフュージョン』の親子にも、どこかそれに近いものを感じた。
距離があることは、必ずしも関係が壊れていることを意味しない。
近づきすぎないから続いていく関係もあるのだと思う。
静かな余韻
この映画は救済の物語ではない。
しかし、続いていく物語ではある。
大きな答えを提示するわけでもなく、人生の難題を解決してくれるわけでもない。
それでも観終わった後、不思議な余韻が残る。
強い光の中ではなく、半影の中を歩いている人のための映画。
人との距離に悩んだことがある人なら、きっとどこかで引っかかる場面があるだろう。
静かな夜にふと思い出したくなる一本だった。
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