円谷英二の故郷・須賀川で考えた特撮と自然の境界線
テレビを眺めていると、福島県須賀川市を紹介する番組が流れていました。
須賀川といえば、特撮好きなら一度は耳にしたことがある街です。
ここは、あの円谷英二さんの故郷。
街の中にも特撮にちなんだものが数多く存在していて、ジオラマのような展示から、まるで特撮映画の撮影所に入り込んだような施設まであります。
普通の街を紹介する番組を見ているつもりだったのですが、どうも街そのものが一つの特撮セットのように見えてきます。
考えてみれば、なかなか不思議な街です。
映画の中では、現実に存在しない怪獣や宇宙人を「本物らしく」見せるために、巨大なセットやミニチュアを作る。
ところが須賀川では、その「特撮の世界」を現実の街の中に作っている。
映画の中の作り物が、現実の街へ逆輸入されているわけです。
ミニチュアだからこそ出来たこと
昔の特撮映画を見ていると、現在のCGとは違った面白さがあります。
建物を壊す。
街を怪獣が歩く。
列車が脱線する。
火山が噴火する。
今ならコンピューターでかなりのことが出来ますが、昔はそう簡単にはいきません。
そこで登場するのが、ミニチュアや特殊撮影です。
実物をそのまま再現するのではなく、
「どうすれば小さな模型を巨大なものに見せられるのか」
を考える。
撮影方法を変えたり、煙を使ったり、水の流れを工夫したり、カメラの位置を変えたりする。
そこには、現在のような「何でもCGで作ってしまう」という発想とは違う、職人の知恵がありました。
無理なものを無理なまま諦めるのではなく、
「別の方法なら出来るんじゃないか」
と考える。
特撮の面白さは、そこにあったのかもしれません。
ところが自然は手強い
しかし、特撮の技術が進歩していくと、別の問題が出てきます。
自然です。
例えば火山の噴火。
ミニチュアの山を作り、火口から赤い溶岩を流し、煙を噴き出させる。
映画として見れば十分に迫力があります。
ところが本物の火山を見てしまうと、何かが違う。
本物には、炎や煙だけではありません。
地面を揺らす力がある。
空気を変える熱がある。
風によって煙の形が変わる。
周囲の地形そのものまで変えてしまう。
そして何より、
「次に何が起こるのか分からない」
という怖さがあります。
人間が作った特撮には、基本的に設計図があります。
どこから煙を出すのか。
どのタイミングで建物を壊すのか。
怪獣をどこから登場させるのか。
すべて人間が考えている。
ところが自然には、その設計図がありません。
特撮が自然に勝てない理由
これは特撮技術が未熟だからという話ではないのでしょう。
むしろ逆です。
技術が進歩すればするほど、人間は自然を再現できるようになりました。
CGなら巨大な津波も、火山も、隕石も、宇宙空間も作ることができます。
しかし、作れることと、本物になることは少し違う。
画面の中では巨大な火山が噴火していても、撮影している場所には本当の熱も振動もありません。
そこにあるのは「本物に見える映像」です。
考えてみれば、特撮そのものが最初からそうでした。
本物ではないものを、本物に見せる。
怪獣は存在しない。
巨大ロボットも存在しない。
しかし観客が映画館でそれを見ている間だけは、確かに存在している。
その境界線を作るのが、特撮だったのでしょう。
須賀川で、その境界線を見る
そう考えると、須賀川の街に特撮のジオラマや施設があることも、少し違って見えてきます。
そこにあるのは単なる「懐かしい特撮文化」ではありません。
人間が作った小さな世界を、どこまで本物らしく見せられるのか。
そして、本物と作り物の境界線はどこにあるのか。
その問いを、街そのものが展示しているようにも見えます。
映画の撮影所なら、現実の街を作り物として再現する。
須賀川では逆に、作り物だった特撮の世界を現実の街の中に作っている。
そう考えると、少し不思議な循環です。
最後に勝つのは自然なのかもしれない
円谷英二さんたちが苦労して作り上げた特撮技術は、やがてCGへと進化し、現在では私たちが想像するもののほとんどを映像として作れるようになりました。
それでも自然だけは、時々こちらの想像を超えてきます。
火山も、雷も、海も、山も、台風も。
人間が「こう見えるだろう」と考えて作ったものより、本物のほうが妙に不自然で、妙に恐ろしく、そして圧倒的だったりする。
だからこそ、人間はまた自然を真似したくなる。
そして、そのために新しい特撮技術を作る。
もしかすると特撮というものは、
「自然を再現するための技術」であると同時に、「自然には勝てないことを知るための技術」
なのかもしれません。
須賀川の街を見ながら、そんなことを考えていました。
怪獣も宇宙人も、ミニチュアの街も、人間が作ったものです。
けれど、その背景にある空や山や雲まで人間が完全に作れるようになったとしても――
最後に「本物とは何なのか」と問い返してくるのは、案外、何の変哲もない自然なのかもしれません。



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