雨音はレコードの雑音を消してくれる

文化の記憶

雨の日は、外へ出るのがおっくうになる。

もっとも、休日の雨なら話は別だ。出不精の人間にとっては、むしろ歓迎したい天候でもある。

カーテンを閉め、間接照明だけを残す。外の景色を遮断して、タブレットに向かいながらブログの記事を書く。そんな時間があってもいい。

できれば、空を暗い雨雲が覆い、昼間から薄暗さを感じられるくらいが理想的なのだが、天候ばかりは人間の都合に合わせてくれない。

そんな雨の日の過ごし方について考えていたところ、以前耳にした短編小説の話を思い出した。

ある父親が、雨の日になるとジャズシンガーのレコードをかけて楽しんでいたという。

やがて父親は亡くなり、娘が遺品を整理していると、そのレコードが見つかる。父親の影響でジャズシンガーになった娘は、懐かしさもあってレコードをかけてみる。

ところが、再生された音は雑音だらけだった。

レコードの劣化がひどく、とてもまともに聴ける状態ではなかったのである。

しかし、そこで意外なことが分かる。

雨の日には、外から聞こえてくる雨音がレコードの雑音を紛らわせてくれる。父親は、そんな環境で音楽を楽しんでいたらしい。

なるほど、そういう楽しみ方もあるのか。

普通なら、レコードの雑音は取り除きたいものだろう。音質のよい機器で再生し、余計なノイズのない音楽を聴く。それが当たり前の考え方なのかもしれない。

ところが、この父親にとっては、雨音が雑音を覆い隠してくれれば、それで十分だった。

レコードを修復したわけでも、最新の機器を買い求めたわけでもない。聴く環境を変えることで、古いレコードを楽しめるようにしていたのである。

考えてみれば、私たちは何かにつけて、不都合なものを取り除こうとする。

傷があれば直したい。古くなれば新しいものに替えたい。雑音が入れば消したくなる。

もちろん、それが必要な場合もある。

しかし、すべてを完全な状態に整えなければ楽しめないというのも、少々窮屈な話ではないだろうか。

多少の不具合があっても、それを受け入れられる環境があれば、楽しみ方は残されている。

雨音を利用して古いレコードを聴く父親の姿には、そんな暮らしの知恵が感じられる。

そして、この話にはもうひとつ、興味深いところがある。

父親の影響を受けた娘は、やがてジャズシンガーになった。

父親が娘にどんな言葉をかけていたのかは分からない。音楽家になることを勧めたのかもしれないし、そんな話など一度もしたことがなかったのかもしれない。

ただ、父親は雨の日にレコードをかけていただけだった。

それでも、その音楽は娘の人生に影響を与えていた。

人から人へ受け継がれるものは、必ずしも教訓や立派な言葉ばかりではない。何気ない習慣や、本人にとっては当たり前だった時間が、誰かの記憶に残り、その後の人生を形づくることもある。

父親が聴いていたレコードの雑音は、年月とともに増えていたのだろう。

それでも、雨の日には音楽として楽しめた。

娘は父親が残したレコードを聴き、音の劣化を知った。しかし、父親が雨音の中で聴いていた音楽と、その時間までは、レコードを修復したところで取り戻せない。

そう思うと、少しばかり切ない。

さて、今日も雨が降るらしい。

カーテンを閉めて、部屋の明かりを落とす。お気に入りの音楽を流し、ブログの記事を書く。

外の雨音が音楽に混じってきても、気にすることはない。

完璧な音響設備も、特別な趣味の道具も必要ない。今あるものを、今の環境で楽しめれば、それでいい。

雨の日には、雨の日なりの過ごし方がある。

古いレコードの雑音を雨音が紛らわせてくれるように、日常の小さな不都合も、見方を変えればそれほど気にならなくなるのかもしれない。

もっとも、雨が降ったからといって、ブログの記事がすらすら書ける保証はない。

ひとつの話から別の話へ脱線し、気がつけばまったく違う記事になっていることもある。

それでも、雨の日に家で過ごす時間は悪くない。

窓の外では雨が降り、部屋の中では音楽が流れている。

それだけで、休日を過ごす理由としては十分なのである。


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