好きでもないのに、なぜか忘れられない――カリスマが残す脳内のノイズ

人の記憶

人間社会を見渡してみると、どのような世界にも「カリスマ」と呼ばれる人物が存在する。

芸能界には多くの人々を熱狂させるスターがいる。スポーツの世界には、登場するだけで観客の視線を集めてしまう選手がいる。職人の世界にも、その仕事ぶりだけで周囲を納得させる人物がいる。

そして、宗教の世界に目を向ければ、聖書に登場するイエス・キリストという、歴史を超えて人々の価値観や生き方に影響を与え続けている存在がいる。

それぞれの立場も影響力も異なるが、彼らに共通するものは何なのだろうか。

単なる能力の高さなのか。それとも、人並み外れた個性なのか。あるいは、理屈では説明しきれない何かが、人間には備わっているのだろうか。

そんなことを考えていると、私の頭には、あるプロレスラーの姿が浮かんでくる。

アントニオ猪木氏である。

オープンカーに乗った闘魂ガウンの男

若い頃、建設会社の手伝いをしていた時期がある。

あるとき、建物の高いところから道路を眺めていると、オープンカーの後部座席に座る人物の姿が目に入った。

闘魂ガウンをまとったアントニオ猪木氏だった。

身体の大きさに圧倒されたという記憶よりも、あの姿が地方の道路を走っていることに対する、何ともいえない不釣り合いな感覚の方が強く残っている。

「何やってんだ……」

率直に言えば、そんな感想だった。

わざわざ地方までやって来て、闘魂ガウン姿でオープンカーの後部座席に座る。普通の人間なら、なかなか真似のできることではない。

もちろん、当時の事情やご本人が何を考えていたのかまでは分からない。しかし、目の前に現れた光景の奇妙さは、今でも記憶に残っている。

もっとも、私は新日本プロレスの熱心なファンでもなければ、猪木イズムを敬愛している人間でもない。

あの方にビンタを食らいたいとも思わないし、できれば近づきたくもない。

それなのに、なぜか忘れられないのである。

ビンタまでが名物になる不思議

アントニオ猪木氏を象徴するものの一つに、いわゆる「闘魂ビンタ」がある。

普通に考えれば、いきなり人の頬を張るなど、怒られても不思議ではない行為である。ところが、猪木氏の場合は、それが一種の名物となり、ビンタを受けることを望む人まで現れる。

同じ行為でも、誰がやるかによって、受け取られ方がまるで違ってしまう。

もちろん、誰がやっても許されるという話ではない。相手の同意や、その場の関係性、そして長年にわたって築かれた人物像があってこそ成立する現象なのだろう。

それでも、考えてみれば不思議なことである。

普通の人間が同じことをすれば、単なる乱暴者で終わるかもしれない。しかし、猪木氏がやると、それ自体が一つの物語になってしまう。

ここには、行為そのものだけでは説明できない何かがある。

人々は、ただ頬を張られることを求めているのではない。アントニオ猪木という人物に、その行為をしてもらうことに意味を見いだしているのではないだろうか。

つまり、カリスマとは、本人の行動だけで成立するものではない。その人物を見つめる人々が、そこに特別な意味を感じ取ることで、さらに強い存在へと変わっていくのかもしれない。

好き嫌いだけでは説明できない存在

世の中には、多くのファンに囲まれる人物がいる一方で、その人物を嫌う人も大勢いる。

しかし、アンチだからといって、必ずしもその人物を意識せずにいられるとは限らない。

発言が気になり、行動が気になり、何かあるたびに話題にしてしまう。批判しているはずなのに、いつの間にか自分の意識の中で大きな場所を占めている。

もちろん、嫌われている人間がすべてカリスマというわけではない。単に不快な存在であれば、それだけの話である。

だが、好き嫌いを超えて人々の関心を引きつけ、本人が何をするのか気になってしまう人物がいることも確かだ。

私にとっての猪木氏も、どこかそうした存在なのかもしれない。

私は猪木イズムを信奉しているわけでもなければ、熱狂的なファンでもない。それなのに、若い頃に目撃した闘魂ガウン姿が、何十年経った今でも記憶に残っている。

その姿を思い出したところで、人生が変わるわけでもない。

それでも、ふとした拍子に記憶の中から顔を出し、「あの人は一体、何だったのだろう」と考えさせられる。

まるで、頭の中に小さなノイズが残り続けているようなものだ。

カリスマとは、人の記憶に居座る存在なのか

人間は、感動したものや尊敬するものを記憶する。

しかし、それだけが記憶に残る理由ではない。

理解できなかったもの、違和感を覚えたもの、理屈ではうまく説明できなかったものも、意外なほど長く記憶に残ることがある。

私が猪木氏を目撃したとき、感動したわけではない。格好いいと思ったわけでもない。むしろ、「何をやっているのだろう」という違和感の方が強かった。

それでも、あの光景は消えていない。

もしかすると、人を惹きつける魅力とは、必ずしも好感や尊敬だけで成り立つものではないのだろう。

その人物が何を考え、何をするのか分からない。常識的な物差しでは、うまく測れない。それなのに、なぜか目が離せず、記憶からも追い出せない。

そんな存在が、人々からカリスマと呼ばれるのかもしれない。

ただし、記憶に残ることと、人を惹きつけることは同じではない。カリスマと呼ばれる人物には、その存在を通して何かを感じたり、意味を見いだしたりする人々がいる。本人の資質だけでなく、受け手の心理や、その時代の空気も関係しているのだろう。

宗教の世界におけるイエス・キリストと、プロレスの世界におけるアントニオ猪木氏を、同じ種類の人物として扱うことはできない。

しかし、まったく異なる世界に生きた人物を通して、人間が誰かに特別な意味を見いだし、その存在に影響を受ける仕組みを考えることはできる。

人は、その人物自身に惹かれているのだろうか。それとも、その人物が自分に見せてくれる世界に惹かれているのだろうか。

結局のところ、私にはまだ、はっきりとした答えは見つからない。

ただ一つ言えるのは、私は猪木氏の熱心なファンではないということだ。

ビンタを食らいたいとも思わないし、闘魂ガウンをまとってオープンカーに乗りたいとも思わない。

それでも、あの姿は今も記憶に残っている。

好きでもないのに、なぜか忘れられない。

もしかすると、カリスマの正体を探る手掛かりは、そんな自分自身の中に残った、説明しきれないノイズにあるのかもしれない。


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