魔王よりも怖いのは人間だった――永井豪『デビルマン』が描いた群衆の狂気

境界線を読む

さとのか4Kで『歴史を歩く 信長と安土城』を流し見していた。

資料や絵画をもとにCGで復元される安土城。その豪華絢爛な姿を眺めていると、織田信長という人物の、既存の枠に収まらないこだわりが透けて見えるようだった。

第六天魔王と呼ばれた男。

常識を破り、既存の権威に挑み、天下統一を目指した戦国武将である。

北野武監督の映画『首』では、そんな信長が、周囲を振り回す癖の強い人物として描かれていた。もちろん映画は創作を含む作品だが、あの奇矯な人物像を眺めていると、歴史に名を残す人間の創造性と危うさは、案外近いところにあるのかもしれないと思えてくる。

しかし、そんな魔王よりも怖いものがある。

それは、一般人である。

群衆という名の怪物

以前、大学の教授が授業の傍ら、こんな趣旨の話をしていたことがある。

「本当に怖いのは国家よりも群衆だ」

細かな言い回しは記憶の彼方だが、その言葉は妙に頭に残っている。

国家には権力がある。法律があり、警察があり、場合によっては軍隊もある。国家権力が個人に向けられたとき、その力は恐ろしいものになる。

一方、群衆には別の怖さがある。

そこにいるのは、特別な権力を持たない、ごく普通の人々だ。

ひとりひとりを見れば、どこにでもいる人間かもしれない。仕事をし、家族を気にかけ、休日にはテレビを眺めている。自分を残酷な人間だと思っている者など、そう多くはないだろう。

ところが、同じ方向を向いた人間が集まると、話が変わってくる。

誰かが疑いを口にする。別の誰かが同調する。さらに別の誰かが声を大きくする。

気がつけば、最初は曖昧だった疑いが確信に変わり、排除することが正義として扱われるようになる。

しかも、そこに悪の親玉がいるとは限らない。

みんなが少しずつ加担しているだけなのだ。

そして、誰もが自分ひとりの責任ではないと思っている。

『デビルマン』が映し出したもの

この話をすると、思い出す漫画がある。

永井豪さんの『デビルマン』である。

悪魔の存在を知った人間たちは、恐怖に駆られ、身近に潜む悪魔を探し始める。

正体の分からないものへの恐怖。それは、いつしか疑心暗鬼へと変わっていく。

本当に悪魔なのかどうか。確かな証拠があるのかどうか。

そんなことよりも、疑わしい相手を見つけ出し、排除することのほうが優先されてしまう。

恐怖が人間の判断を狂わせ、集団の熱狂が個人の良識を押し流していく。

そして、悪魔を恐れていた人間たちが、悪魔にも劣らない残酷さを見せ始める。

人間を守るための行動だったはずが、いつの間にか人間を破壊する行為へと変わっている。

ここに『デビルマン』の恐ろしさがある。

悪魔という異質な存在を描きながら、物語の中心に浮かび上がってくるのは、人間自身の姿なのだ。

悪魔は人間を襲う。

では、人間はどうなのか。

自分たちと違うものを見つけたとき、恐怖を覚えたとき、自分の正義を疑えなくなったとき。

人間は、いったい何をするのだろう。

正義という便利な看板

人間は、自分の行動に理由を求める生き物である。

家族を守るため。仲間を守るため。社会を守るため。

そうした理由そのものが悪いわけではない。

問題は、その理由があれば何をしても許されると思い始めることだ。

誰かを傷つけても、自分は正しいことをしていると思える。相手を排除しても、社会のためだと考えられる。

自分の行動を正義と呼べば、罪悪感を遠ざけることができる。

しかも、周囲の人間が同じことを言ってくれれば、なおさら都合がよい。

「自分だけが悪いわけではない」

この言葉ほど、集団の中で便利なものはないのかもしれない。

信長が敵を討てば、歴史には戦国武将の苛烈な行動として記録される。

しかし、名もない人々が集団となって誰かを追い詰めたとき、それは世論や常識、あるいは正義という名前で呼ばれることがある。

もちろん、国家と群衆が同じものだというわけではない。国家権力による弾圧と、群衆による排斥には、それぞれ異なる仕組みと責任がある。

ただ、どちらの場合にも、自分たちの行為を正当化する理屈が生まれることはある。

魔王なら、誰が魔王なのか分かりやすい。

しかし、群衆の場合はどうだろう。

そこにいるのは、善良な市民を自認する人々かもしれない。

人間と悪魔の境界線

『デビルマン』が描いた世界では、人間と悪魔を分ける境界線が、恐怖によって揺らいでいく。

人間を守るために悪魔を排除しようとした人間たちが、やがて自分たちの手で破壊を生み出していく。

悪魔を倒せば世界は平和になる。

そう信じていたはずなのに、悪魔を探す行為そのものが、人間の世界を壊していく。

これは、単純に人間の本性は悪だと言って終わらせられる話でもないだろう。

人間には誰かを思いやる心もある。自分を犠牲にして誰かを守ろうとすることもある。

だからこそ、恐怖や憎悪によって、その心が別の方向へ向かってしまう過程が恐ろしいのだ。

誰かを守りたいという気持ちと、誰かを排除したいという気持ち。

そのふたつが、同じ人間の中に同居することもある。

境界線というものは、案外頼りない。

自分は正しい側にいると思っていても、状況が変われば、いつの間にか誰かを追い詰める側に立っているかもしれないのだから。

魔王よりも怖いもの

安土城を築いた信長は、歴史に名を残した。

その野心も、奇抜さも、権力への執着も、後世の人間が語ることのできる対象になっている。

しかし、歴史に名を残さない人間たちの行動は、どうだろう。

集団の中で誰かを笑いものにする人間。周囲に合わせて異質なものを排除する人間。自分は何もしていないと思いながら、黙ってその光景を眺める人間。

そこに第六天魔王のような大物は必要ない。

特別な能力も、巨大な権力も必要ない。

ごく普通の人間が、ごく普通の顔をして暮らしながら、ときに誰かの居場所を奪っていく。

しかも、その人間たちは、自分が悪魔になったとは思わない。

むしろ、自分たちは悪魔と戦っているのだと信じているのかもしれない。

魔王は歴史に名を残す。しかし、群衆の残酷さは、日常の中に紛れ込んでしまう。

そして、最後に残るのは、ひとつの疑問である。

人間を滅ぼすのは、悪魔なのだろうか。

それとも、人間なのだろうか。

人間を守るために人間を疑い、人間を救うために人間を排除し、人間の正義によって人間の世界を壊していく。

そう考えると、悪魔などいなくても、ずいぶん恐ろしい話が成立してしまう。

人間を滅ぼすのは人間です。

魔王よりも怖いのは、案外、どこにでもいる普通の人間なのかもしれない。


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