「昭和の人情と、毎日やって来る法被ボンバーマン」

人の記憶

チャンネル銀河で『天まであがれ!』を眺めている。

『孤独のグルメ』が始まるまでの、いわば前菜である。

ところが、この前菜がなかなか濃い。

登場人物たちが、とにかく他人の家へ入っていく。

近所のうるさいおばさんであろうが、池上季実子演じるヒロインであろうが、玄関先で「お邪魔します」と遠慮する時間が短い。

気がつけば、もう家の中にいる。

「ちょっと話があるんだけど」

そう言いながら入ってきて、居間に座っている。

現代の感覚で見ると、

「いや、まず玄関で話せばいいんじゃないか?」

と思ってしまう。

しかし、こういう場面が昭和のドラマには妙に多い。

もちろん、実際の昭和の人間関係がすべてそうだったわけではない。

これはあくまでドラマの演出なのだろう。

それでも、画面の中では人と人との距離がやたら近い。

家は個人の領域というより、近所の人間がふらっと入ってくる場所になっている。

玄関というものが、現代ほど強い境界線として機能していないように見える。

そして私は、こういう距離感が昔から少し苦手だった。

「人情があっていいじゃないか」

と言われれば、それはそうなのだろう。

困ったときに近所の人が助けてくれる。

誰かの家に集まって酒を飲む。

子供のことを近所の大人が叱る。

そういう世界には、確かに温かさがある。

ただ、その温かさと厚かましさは、かなり近いところにある。

一歩間違えると、

「あなた、そこまで入ってきますか?」

になる。

『天まであがれ!』を見ていると、その境界線が妙に曖昧なのだ。

しかも、誰が入ってきても成立してしまう。

近所のおばさんでも、若い女性でも、昔からの知り合いでも同じ。

「知り合いだから入っていい」

という論理が、今よりずっと強かったように見える。

私はこういう人間関係を見ていると、少し離れたところに椅子を置きたくなる。

輪の中に入って一緒に騒ぐより、少し離れたところから、

「また入ってきたな……」

と眺めているほうが楽なのだ。

だから『天まであがれ!』の人間関係を見ていると、懐かしいというより面白い。

昭和の人情ドラマというより、

「他人との境界線をどこまで消せるか選手権」

を見ているような気分になる。

それでも不思議なことに、こうした距離の近さがあるからこそ、登場人物同士の関係も濃く見える。

現代のドラマなら、電話一本、メッセージ一本で済ませそうな話を、わざわざ本人が家までやって来る。

そして勝手に座る。

勝手に話す。

勝手に心配する。

勝手に怒る。

そして、勝手に帰る。

ずいぶん忙しい。

でも、こういう「勝手に」が人間関係を動かしていた時代だったのかもしれない。

……などと考えながら見ていたら、そろそろ『ミュージック・シャワー』の時間になる。

こちらもまた、別の意味で人との距離が近い。

そして、その後には『孤独のグルメ』が待っている。

人間関係の濃い昭和ドラマ。

妙に濃厚な歌謡番組。

最後に一人で黙々と飯を食う男。

今夜のテレビ番組の並びを眺めているだけでも、なかなか奇妙な食卓である。

私はその食卓の端っこで、少し離れて眺めている。

たぶん、このくらいの距離がちょうどいい。


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