三角窓を磨く老紳士。機械の雰囲気と人間の言葉

人間と機械

大納言様の埋葬という用事があり、同居人の付き添いに付き合わされて実家の方へ来ている。

帰り際、内子町にある道の駅「からり」で土産物を買って帰るというので、しばらく駐車場で待つことになった。

そこで、思いがけない光景を目にした。

ハコスカGT-Rを磨いているオーナーの姿である。

車に見合ったビンテージな風貌の老紳士が、愛車を丁寧に手入れしている。車だけが年月を重ねているのではなく、乗り手にも相応の年季が感じられる。

なかでも印象に残ったのは、三角窓を磨いている姿だった。

今ではすっかり見かけなくなった三角窓。かつては車内に風を取り込むための、当たり前の装備だった。

そんな細部にまで手をかける姿を見ていると、単に古い車を所有しているというだけではない、長い付き合いのようなものを感じる。

車とともに時代を歩んできたのだろうか。

磨き終えた愛車に乗り込み、走り去っていく姿には、車の古さとはまた違う、時間の積み重なりが漂っていた。

もっとも、旧車というものは眺めている分にはいいが、維持するとなると話は別である。

以前、ハコスカの話をした際にも思ったことだが、車検に80万円近く掛かるとなれば、なかなかの負担である。

現代の車なら、買い替えという選択肢もあるだろう。しかし、それでも乗り続ける人がいる。

金額だけでは測れない愛着があるのだろうし、長年連れ添ってきた車には、他人には分からない思い出も詰まっているのだろう。

車を磨く時間そのものが、楽しみなのかもしれない。

そう考えると、私には少しばかり理解できるような気もする。

ただし、自分が同じ立場になりたいかと聞かれれば、答えは別である。

金のかかる古女房など、まっぴらごめんだ。

そもそも、私が車に求めているものは、旧車のような趣や、過ぎ去った時代の面影ではない。

以前から考えているのは、完全な自動運転が実現した先にある、自分だけの移動空間である。

畳にちゃぶ台でも置いてあるような、車というより小さな部屋に近いものがいい。タブレットをいじりながら雑談を楽しみ、疲れれば昼寝をする。誰かに運転を任せる必要もなく、自分の時間を自分の好きなように過ごせる空間である。

もっとも、車内をどれほど快適にしたところで、同居人が隣にいれば、現実的な会話が始まる可能性はある。

ここで、機械と人間の違いについて考えてしまう。

ハコスカのオーナーにとって、愛車が語りかけてくるものは、エンジン音やボディの艶、あるいは三角窓を磨く指先に伝わる感触なのかもしれない。

そこには言葉がなくとも、長年付き合ってきた者同士にしか分からない雰囲気がある。

一方、人間同士となると、そうはいかない。

こちらが何かを感じ取る前に、相手からリアルな言葉が飛んでくる。返事をすれば話が続き、話が続けば、いつの間にか別の用事まで発生している。

もちろん、それも人間社会の営みなのだろう。

ただ、機械が醸し出す雰囲気と、人間が発する生々しい言葉とでは、こちらの受け取り方が違う。

機械の沈黙には、こちらが勝手に意味を見いだす余地がある。しかし、人間の言葉には、返答という仕事が付いてくる。

私が求めているのは、必ずしも誰かと一緒に過ごす時間ではない。誰にも邪魔されず、自分の思考があちらこちらへ脱線していく時間も、それはそれで捨てがたいのである。

道の駅の駐車場で、ハコスカを磨く老紳士を見かけた。

あの人には、あの人なりの愛着がある。

私には私の都合がある。

機械とともに時代を歩む人もいれば、機械を自分だけの時間を過ごすための道具として考える人間もいる。

どちらが正しいという話でもない。

ただ、私の場合は、車検に80万円掛かる古女房よりも、静かに自分の時間を過ごせる移動空間の方がありがたい。

もっとも、そんな未来の車が実現したところで、人間の言葉まで静かになる保証はないのだが。


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