「視線の境界線──『Pearl』『X』『MaXXXine』から考える人間」1 『パール』の笑顔が怖い理由──「見られたい人間」が演じる人格の正体

映画から考える社会

A24の映画『パール』を、半分流し見のように観ていた。

ホラー映画として観ることもできる作品だが、観終わったあとに妙に頭に残ったのは、殺人描写ではなかった。

最後の笑顔だった。

引き攣ったような笑顔。

あれは喜びなのか、絶望なのか、それとも発狂なのか。

感情がどこにあるのか分からないのに、表情だけは「笑顔」を維持している。

そこに、この映画特有の不気味さがある。

しかし、『X』、そして『MaXXXine』まで観てから改めて『パール』を振り返ると、あの笑顔は単なる狂気の表現ではなかったようにも見えてくる。

むしろそこには、

「誰かに見てもらいたい」

という人間の欲望がある。

そして、その欲望がいつの間にか、

「見られるための自分を演じる」

という行為に変わっていく。

『パール』は「演じ続ける人間」の映画でもある

『パール』の主人公は、ただの猟奇的な人物ではない。

彼女は常に、「スターになりたい自分」を演じている。

農場での生活。

戦争。

家族の介護。

閉塞感。

地方から抜け出せない現実。

その中でPearlは、映画のヒロインのように振る舞おうとする。

自分はここにいるべき人間ではない。

もっと大きな世界へ行くべき人間なのだ。

そう信じようとする。

だからこそ怖い。

人間として壊れていく過程そのものよりも、

「壊れながら、なお演技を続けている」

ことが不気味なのだ。

あのラストシーンの笑顔も、幸福というより、

「こういう場面では笑うべき」

という演技に近い。

顔面だけが社会性を維持している。

感情が崩壊しているのに、表情だけは「スターらしい顔」を作ろうとする。

そこに妙なリアリティがある。

「見られたい」という欲望

『Pearl』を『X』『MaXXXine』まで含めて考えると、この映画の中心にあるものが少し変わって見えてくる。

Pearlが欲しかったのは、単純に映画に出演することだけではない。

誰かに自分の存在を発見してほしかった。

「私はここにいる」

「私は特別な人間だ」

「私には、もっと別の人生がある」

そう誰かに認めてもらいたかったのではないだろうか。

これは、後に『X』で描かれるMaxineの欲望にもつながっていく。

Pearlが「見つけてもらいたい」と願ったのに対して、Maxineは自ら「見られる場所」へ向かっていく。

そして『MaXXXine』では、さらにその先へ進む。

つまり三部作を通して見ると、

Pearl──見つけてもらいたい

Maxine──見られることで成功したい

という、一見似ているようで少し違う欲望が描かれている。

その根底にあるのは、

「私は誰なのかを、誰かに認めてほしい」

という願望なのかもしれない。

地方タレントに感じる「演出された人格」

この映画を観ていて、なぜか地方タレントを思い出した。

特に地方FM局のパーソナリティなどに時々感じる、あの独特の「演出感」のようなものだ。

常に明るい。

リアクションが大きい。

親しみやすい。

地元愛を語る。

空気を盛り上げる。

もちろん仕事なのだから当然である。

しかし時々、会話を聞いている最中に、感情より先に「演出意図」のようなものが見えてしまうことがある。

以前、大型商業施設の中に設置された地方FM局のブースで、放送外のパーソナリティを見かけたことがある。

オンエア中とは別人のように、誰にも視線を向けず、黙々と時間を過ごしていた。

別に態度が悪いわけではない。

むしろ、それが普通の人間の姿なのだと思う。

しかし、放送中の人格との差があまりにも大きかった。

その瞬間、

「演じる人格というものは、本当に本人とは別の存在になっていくのではないか」

と妙に意識した。

Pearlも同じなのかもしれない。

彼女はスターを演じようとするうちに、「スターである自分」と「現実の自分」の境界を失っていく。

人はどこまで「役割」を演じているのか

地方タレントだけではない。

会社の上役にも、似たような空気を感じることがある。

管理職になるほど、

  • 威厳
  • 余裕
  • 指導者らしさ
  • ポジティブさ
  • 会社への忠誠

を演出する必要が出てくる。

日本の会社では特に、「管理職らしく見えること」自体が仕事になりやすい。

そのため、人によっては次第に、

本人

役職人格

社会的な演技

の境界が曖昧になっていく。

こちらから見ると、

「この人は本当に自分の言葉で喋っているのか?」

と思うことがある。

もちろん、それは必ずしも悪意ではない。

組織を回すために必要な演技でもある。

上からの理不尽を理解しながら、下も守らなければならない。

数字も追わなければならない。

部下の不満も受け止める。

その中で、人は「役割としての人格」を形成していく。

問題は、その役割を長く演じているうちに、

どこまでが仕事で、どこからが自分なのか

分からなくなることだ。

中間層の人間は「分かっていながら従う」

社会で最も多いのは、完全な反抗者でも、完全な服従者でもない。

「おかしい」と分かりながら、それでも適応している人間だ。

中間層の人間は理不尽を理解している。

しかし同時に、生活もある。

完全に逆らうこともできない。

だから、

  • 空気を読む
  • 演技する
  • 妥協する
  • 笑顔を作る
  • 建前を維持する

ことになる。

そこには良い面も悪い面もある。

組織を維持する力にもなる。

しかし同時に、人間を疲弊させる原因にもなる。

『パール』の怖さは、実はそこに近いのかもしれない。

彼女は壊れている。

しかし最後まで「笑顔」を維持しようとする。

壊れてもなお、「主人公らしく」あろうとする。

だから観客は、恐怖と同時に、どこか滑稽さも感じる。

SNS時代は誰もが半分タレント化している

今の時代は特に、この「演じる人格」が増幅されやすい。

SNSでは、誰もが半分タレントのように振る舞う。

日常を演出し、感情を発信し、キャラクターを作る。

本来なら芸能界だけにあった「見られる人格」が、一般人のところまで降りてきた。

だから『パール』は1920年代の物語なのに、妙に現代的に感じる。

承認されたい。

特別でありたい。

見られたい。

選ばれたい。

その欲望自体は昔から存在していた。

ただ、現代はそれを常時発信できる環境になった。

そして人は、演じ続ける。

時には自分でも、本音と演技の境界が分からなくなるほどに。

『X』を知ると、Pearlの笑顔はさらに怖くなる

『X』では、若いMaxineと老いたPearlが同じ場所に存在する。

そこで初めて、「スターになりたい」という欲望が、単なる若者だけのものではないことが見えてくる。

若いPearlも、老いたPearlも、Maxineも、それぞれの時代で「見られること」を求めている。

しかし、時代が変わっても、人間の欲望そのものは大きく変わらない。

そして『MaXXXine』まで観ると、その構造はさらに複雑になる。

映画産業は、人間に「見られる場所」を与える。

しかし同時に、人間の身体や人生そのものを映像に変え、消費する場所でもある。

ここに、この三部作の皮肉がある。

見られたいという欲望が、見られる側の人間を商品にしてしまう。

Pearlが求めた「スターになること」は、自由への出口だったのかもしれない。

しかし、その出口へ向かうためには、自分自身を他人の視線に差し出さなければならない。

「見る人」と「見られる人」

ここまで考えると、『パール』は単なる「狂った女性のホラー」ではなくなる。

人間は誰かを見る。

同時に、自分も誰かから見られている。

そして「どう見られるか」を意識した瞬間、人は自分自身を演出し始める。

これは映画だけの話ではない。

会社でも。

地域社会でも。

SNSでも。

家庭でも。

人は完全に「素」のままではいられない。

役割を演じる。

笑顔を作る。

言葉を選ぶ。

その繰り返しによって、社会は維持されている。

しかし、その演技が長く続いたとき、人は自分が何者なのか分からなくなることがある。

その極端な姿を、Pearlは見せているのではないだろうか。

葛飾応為の記事から見えてくるもの

以前、葛飾応為について書いたとき、私は「人間をどのような視線で見るのか」ということを考えた。

絵画は人間を残す。

映画も人間を残す。

テレビも人間を映す。

そして現代では、SNSによって誰もが自分自身を映像や写真として残していく。

媒体は違っても、

「誰が見るのか」
「誰が見られるのか」
「誰がその姿を残すのか」

という問題は残り続ける。

『パール』では、その視線を自分自身が欲しがっている。

「私を見てほしい」

という願望が、やがて「見られるための自分」を作り始める。

そう考えると、Pearlの笑顔は単なる狂気の表情ではない。

それは、

「私は今、どう見えているだろう」

という、人間が他者の視線を意識した瞬間の顔なのかもしれない。

最後の笑顔が怖い理由

『パール』のラストシーンが不気味なのは、狂気そのものではない。

むしろ、

「壊れてもなお、社会的な顔を維持しようとすること」

にある。

笑顔なのに苦しそう。

泣いているのに笑っている。

幸せそうなのに絶望している。

その感情の曖昧さが、人間の「演じる本能」をむき出しにしている。

もしかすると現代人は、多かれ少なかれ、あの笑顔を持っているのかもしれない。

会社で。

SNSで。

地域社会で。

そして、誰かに見られながら生きる以上、人間は完全に「素」のままではいられない。

Pearlは、その極端な姿なのだ。

そして『Pearl』から『X』、さらに『MaXXXine』へ進むと、この問いは別の形へ変わっていく。

「見られたい」と願う人間は、見られることで何を手に入れ、何を失うのか。

その答えを探すように、三部作は時代を変えながら同じ問いを繰り返している。

だから『パール』の最後に残るのは、殺人の恐怖ではない。

あの笑顔を見ながら、

「自分も誰かに見せるための顔を、毎日のように作っているのではないか」

と考えてしまうことなのだと思う。


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『Pearl』で「見られたい」という欲望を描いたあとに、『X』では、その欲望が今度は**「人を撮影する側」と「撮影される側」**の関係へと変わっていきます。農場という閉じた空間に、ポルノ映画の撮影隊が入り込むことで、宗教、土地、老い、金銭、性、そして映像が交差していく。次の記事では、『X』という一見奇妙な設定から、人間を映像にすることの皮肉について考えてみたいと思います。

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