映画を観ていると、ときどき、まったく別の時代に作られた作品が、思いがけないところで一本の線につながっていることがあります。
以前、A24の『X』と『MaXXXine』について書きました。
『X』では「見る側と見られる側」、そしてカメラに映る身体。
『MaXXXine』では、ポルノ映画の世界からハリウッドへ進み、スターとして評価されることを望む女性。
そんなことを考えているうちに、ふと思い出した映画がありました。
1979年の『ハードコア』です。
監督・脚本はポール・シュレイダー。
シュレイダーといえば、まず思い浮かぶのが『タクシードライバー』です。
『タクシードライバー』では、孤独な男トラヴィス・ビックルが夜の街を走りながら、ポルノ映画館や売春街を眺めています。
彼にとって、それは自分が暮らす社会の「汚れ」の象徴でした。
そして彼は、売春をさせられている少女アイリスを救おうとします。
もちろん、トラヴィス自身が正常な人間なのかという問題は残ります。
むしろ、自分を「社会を浄化する側」と考える男が、暴力によって他人を救おうとするという矛盾こそが、あの映画の怖さなのだと思います。
そしてシュレイダーは、その数年後に、もう一度「救う側の人間」をポルノ産業の中へ放り込みます。
それが『ハードコア』です。
娘を探すため、父親は「嫌いな世界」に入っていく
『ハードコア』の主人公ジェイク・ヴァン・ドーンは、敬虔なカルヴァン派の信仰を持つ実業家です。
娘のクリステンは教会関係の青年集会でカリフォルニアを訪れた後、行方不明になります。
そして父親のもとに、娘がポルノ映画に出演しているらしいことを示すフィルムが届きます。
ここから父親の捜索が始まります。
面白いのは、ジェイク自身がポルノ産業とは正反対の価値観を持っていることです。
しかし、娘を探すためには、その世界へ入らなければならない。
嫌悪していた世界を、自分の目で見なければならない。
ジェイクは娘を救うため、ポルノ映画の関係者を装い、業界の裏側へ潜っていきます。
ここには、『タクシードライバー』との共通点があります。
どちらも、ある男が「自分のいる世界の外側」にある闇へ降りていく。
ただし、トラヴィスが自分の正義を振りかざして少女を救おうとするのに対して、ジェイクの場合は「父親」という立場があります。
娘を失った父親が、自分の信仰と現実の間で揺れながら、娘を探していく。
そして、その過程で父親自身も変わっていきます。
ところが、40年以上経つと「娘」の立場が変わっている
ここで『X』を思い出しました。
『X』のマキシーンは、ポルノ映画の撮影に参加する女性です。
しかし彼女は、自分を「救ってほしい女性」とは考えていません。
彼女には夢があります。
映画スターになることです。
ポルノ映画への出演は、彼女にとって人生の終着点ではありません。
もっと先へ行くための手段です。
この違いは大きいと思います。
『ハードコア』の父親にとって、ポルノ映画の世界は「娘を奪った場所」でした。
しかし『X』のマキシーンにとっては、そこは「自分が上へ行くための場所」です。
同じポルノ映画でも、見る人によって意味がまったく違う。
父親から見れば「堕落」。
本人から見れば「仕事」。
そしてマキシーンにとっては、さらに「夢への足掛かり」です。
ここには、1970年代と2020年代の映画における女性の描かれ方の違いも感じます。
『MaXXXine』では、父親が再び現れる
そして『MaXXXine』です。
ここでマキシーンの過去に、宗教的な父親が登場します。
しかも、単なる信心深い父親ではありません。
宗教指導者として人々を率いる父親です。
娘にとっては、自分が逃げてきた過去そのものです。
ここで私は『ハードコア』を思い出しました。
どちらの作品にも、
「宗教的な父親」と「ポルノ映画の世界に入った娘」
という構図があります。
しかし、父親の立ち位置は大きく違います。
『ハードコア』では、父親は娘を探すためにポルノ産業へ入っていきます。
自分が理解できない世界に、娘を取り戻すために入っていく。
一方、『MaXXXine』では、父親の側が娘を自分の価値観へ引き戻そうとします。
娘を「救う」という言葉の裏側に、娘の人生を自分の価値観で決めてしまう危うさが見えてきます。
「救う側」と「救われる側」が逆転する
ここが、この二本の映画を比べていて一番面白いところでした。
『ハードコア』では、
父親が娘を救おうとする。
しかし『MaXXXine』では、
娘が父親の価値観から自分自身を切り離そうとする。
40年以上の時間を隔てると、「救済」という言葉の意味まで変わっているように見えます。
昔の映画では、社会の道徳から外れた女性を「救う」男性が主人公になる。
ところが現代の映画では、その女性自身が、
「そもそも、誰が私を救う必要があると言ったのか」
と問い返すことができる。
もちろん、『MaXXXine』のマキシーンも単純な「自立した女性」というわけではありません。
彼女はハリウッドという、別の意味で人間を値踏みする世界へ向かっています。
ポルノ映画の世界から抜け出したからといって、そこが自由な世界とは限らない。
カメラの前に立つ以上、どこへ行っても「見られる側」であることから完全には逃れられないのです。
ポルノ映画からハリウッドへ
『X』から『MaXXXine』を続けて観ると、マキシーンは単純に「ポルノ女優から普通の女優になった」とは見えません。
むしろ彼女は、
「自分を見せることで、自分の人生を手に入れようとする女性」
に見えます。
『ハードコア』のジェイクにとって、ポルノ映画は娘を奪う恐ろしい世界でした。
しかしマキシーンにとって、映画は自分自身を上へ押し上げるための道具でもあります。
そして皮肉なことに、彼女が目指すハリウッドもまた、人間を商品として扱う場所です。
ポルノ映画とハリウッド。
一見するとまったく違う世界に見えます。
けれども、カメラの前に立つ人間を「商品」として見るという点では、意外なほど近い場所なのかもしれません。
違うのは、その場所で本人がどこまで自分の意思を持てるのか。
そして、自分自身を「見られる商品」から「自分の人生を選ぶ人間」へ変えられるのか。
父親が恐れた世界は、本当に娘を壊したのか
『ハードコア』から『X』、そして『MaXXXine』までを並べてみると、40年以上の時間の中で、映画の中の「父親」と「娘」の関係が少しずつ変わっているように感じます。
『ハードコア』の父親は、娘を探して映画の暗闇へ入っていきました。
『X』のマキシーンは、その暗闇の中へ自分の足で入っていきました。
そして『MaXXXine』では、その暗闇を抜けて、ハリウッドというさらに大きな舞台へ出ようとします。
父親から見れば、娘は堕落していったのかもしれません。
しかし娘から見れば、ただ自分の人生を選んでいただけなのかもしれません。
そう考えると、映画が描いている「救済」というものも、少し怪しくなってきます。
誰かを救うということは、本当にその人のためなのか。
それとも、
「自分が正しいと思う場所へ、その人を連れていくこと」
なのか。
『ハードコア』と『MaXXXine』を並べて観ると、そんな疑問が残ります。
そして、映画の中でカメラに映っているのは、結局いつも「誰かに見られている人間」です。
その人間が何を望んでいるのか。
それを決めるのは、カメラを持つ側なのか。
それとも、カメラの前に立っている本人なのか。
ポルノ映画からハリウッドへ。
そして父親から娘へ。
40年以上離れた二つの映画をつないでみると、そこには「誰が人の人生を決めるのか」という、意外に大きな境界線が見えてきます。
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映画の中で「救う側」と「救われる側」が入れ替わるとき、そこには時代の変化だけでなく、人間を見る視線そのものの変化が見えてきます。では、別の映画では、社会の境界線からこぼれ落ちた人間たちは、どのように描かれているのでしょうか。



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