「視線の境界線──『Pearl』『X』『MaXXXine』から考える人間」9 三部作が残す「見る/見られる」の境界線

映画から考える社会

『Pearl』『X』『MaXXXine』の3作品を続けて観ていると、最初は単純なホラー映画の三部作に見えていた物語が、少しずつ別の姿に変わってくる。

農場。

映画撮影。

ハリウッド。

宗教。

欲望。

身体。

カメラ。

そして、そこにいる人間たち。

それぞれ違うものに見える。

しかし、その中心には一つの関係が繰り返されている。

誰かが誰かを見る。

そして、

見られる側の人間もまた、誰かを見る。

この境界線は、思っているほど明確ではない。

「見る側」は本当に安全なのか

映画を観ている私たちは、スクリーンの外側にいる。

だから一見すると、

「自分は見る側だ」

と思う。

映画の登場人物を見る。

物語を評価する。

怖い場面では目を背ける。

俳優の演技を見る。

しかし、映画の中でカメラを持っている人間もまた、誰かを見ている。

撮影している。

観察している。

評価している。

そして、その人間自身も別の誰かから見られている。

『X』の撮影現場を考えてみれば、この構造が分かりやすい。

撮影する側。

出演する側。

それを観る観客。

さらに、その観客を想定して映画を作る制作者。

視線が一方向に流れているようで、実際には何重にも折り重なっている。

カメラを持った瞬間、人間は「見る側」になる

カメラには不思議な力がある。

カメラを持つと、人間は現実を切り取る側になる。

誰を映すのか。

何を映すのか。

どこまで近づくのか。

どの瞬間を残すのか。

それを決められる。

だからカメラは、単なる記録装置ではない。

そこには小さな権力がある。

「あなたをこう見せる」

という力だ。

『X』では、その力が映画撮影という形で現れる。

『MaXXXine』では、ハリウッドという巨大な産業の中でさらに強くなる。

人間はカメラの前に立つ。

そして、カメラの後ろにいる人間が、その姿を選別する。

しかし「見る側」もまた見られている

ところが、見る側に立った人間も完全に自由ではない。

監督は映画を作る。

しかし、映画会社から評価される。

俳優は演技する。

しかし、観客から評価される。

映画会社は作品を作る。

しかし、市場から評価される。

SNSで発信する人間も同じだ。

自分の投稿を作る。

しかし、フォロワーから反応される。

「いいね」がつく。

つかない。

再生される。

されない。

つまり、

誰かを見る側に回った瞬間、自分もまた誰かの視線の中に入っている。

この循環から、完全に抜け出すことは難しい。

Pearlは「見る側」になりたかった

Pearlの欲望を、この視線の構造から考えると少し違って見える。

彼女は映画を観る側から、映画に見られる側へ行きたかった。

農場でスクリーンを見る。

そこに映る華やかな女性を見る。

そして、自分もその世界に入りたいと思う。

つまりPearlは、

「見る人間」から「見られる人間」への移動

を望んでいた。

しかし、彼女が求めたのは単なる職業ではない。

誰かから見られることで、

「自分は特別だ」

と確認したかったのかもしれない。

だから彼女にとって、映画は人生そのものに近くなっていく。

『X』では、その境界線が崩れていく

『X』では、見る側と見られる側の関係がさらに複雑になる。

映画を撮影する若者たち。

撮影される出演者。

それを覗き見る農場の老人。

そして、それぞれを見ている観客。

一つの空間に、

見る人間と見られる人間が何重にも存在している。

しかも、立場は固定されない。

カメラを持っていた人間が、次の瞬間には見られる側になる。

見ていた人間が、逆に監視される。

撮影されていた人間が、別の場面では他人を見る。

この入れ替わりこそ、『X』の不気味さの一つなのだと思う。

「見ること」は支配することにもなる

人間をじっと見るという行為には、支配的な側面もある。

相手を観察する。

弱点を探す。

評価する。

分類する。

そして、自分の判断によって相手を決めつける。

これは映画だけの問題ではない。

学校でも起こる。

会社でも起こる。

地域社会でも起こる。

SNSでも起こる。

「あの人はこういう人」

と一度決めてしまえば、その後の行動まで、そのイメージに合わせて見てしまう。

人間は、他人を見ることで相手を理解しようとする。

しかし同時に、

自分の作ったイメージを相手に押しつけてしまう。

ここに「見ること」の危険がある。

宗教もまた「見る人間」を作る

前の記事で考えた宗教と映画産業の問題も、ここにつながる。

宗教は、

「これは善」

「これは悪」

と世界を分類する。

映画も、

「この人物は主人公」

「この人物は悪役」

と物語の中で人間を分類する。

もちろん、両者はまったく同じではない。

しかし、

人間や世界をどう見るのかという枠組みを作る

という点では、似た働きを持つ。

問題なのは、その枠組みが強くなりすぎたときだ。

「この人は悪い人間だ」

「この人間は価値がない」

「この人間はこういう存在だ」

と決めつける。

その瞬間、人間は一人の人間ではなく、

「分類された対象」

になってしまう。

カメラも人間を分類する

映画のカメラも、ある意味では人間を分類する。

主人公として映す。

脇役として映す。

美しく撮る。

醜く撮る。

英雄として撮る。

怪物として撮る。

同じ人間でも、撮り方によって印象は大きく変わる。

だから映画は現実を記録するだけではない。

現実に意味を与える。

これは以前考えた葛飾応為の作品にもつながる。

絵画もまた、現実の中から何かを選び、そこに光を当てる。

つまり、

「見る」という行為そのものが、すでに編集なのだ。

私たちも他人を「編集」している

これは私たちの日常でも起きている。

誰かの一部分を見る。

その人について判断する。

話し方。

服装。

表情。

仕事ぶり。

SNSの投稿。

それらを組み合わせて、

「あの人はこういう人だ」

と考える。

しかし、それは本人のすべてではない。

人間には、見せていない部分がある。

本人にも分かっていない部分がある。

その日の体調によって違う部分もある。

だから、

一つの表情だけで人間全体を判断することはできない。

『Pearl』の笑顔が象徴的なのは、まさにそこだ。

笑顔だけを見れば、幸福に見える。

しかし、その内側にあるものは分からない。

「見られる側」にも演技がある

一方、見られる側も完全に受け身ではない。

人間は見られていると分かれば、行動を変える。

写真を撮るときに笑う。

面接では姿勢を正す。

会社では仕事をしているように見せる。

テレビでは明るく振る舞う。

SNSでは良い瞬間を選ぶ。

つまり、

「見られること」が分かっている人間は、自分自身を演出する。

だから、見る側が作ったイメージと、見られる側が作った人格がぶつかる。

その間に、

「本当の自分」

がどこにあるのか分からなくなる。

マキシーンは「見られる自分」を作ろうとする

『MaXXXine』のマキシーンも、その境界線の上にいる。

彼女はスターになりたい。

だから、自分を見せる。

過去を背負いながらも、新しい自分を作ろうとする。

ハリウッドという場所では、

「どう見えるか」

が重要になる。

そのためには、自分自身を演出しなければならない。

しかし、過去は完全には消えない。

新しい人格を作っても、以前の自分を知る人間が現れる。

つまり、

「自分がどう見られたいか」と「他人が自分をどう見るか」は一致しない。

ここにマキシーンの苦しさがある。

SNSでは、この問題がさらに身近になる

現代では、誰でも自分の「見られる人格」を作れる。

プロフィール写真を選ぶ。

文章を書く。

写真を加工する。

投稿を削除する。

過去の発言を消す。

新しい自分を作る。

しかし、インターネットには過去が残ることがある。

自分が忘れた投稿。

昔の写真。

過去の発言。

誰かが保存した画像。

自分では消したつもりでも、別の場所に残っている。

これは『MaXXXine』の「過去から逃げる」というテーマとも重なる。

人間は新しい自分を作りたい。

しかし、以前の自分を完全に消すことは難しい。

「見る/見られる」は固定された立場ではない

三部作を通して最も面白いのは、

見る側と見られる側が固定されていないこと

だと思う。

Pearlは映画を見る側から、見られる側になりたがる。

『X』では撮影する側と撮影される側が入れ替わる。

『MaXXXine』では、スターを目指す人間自身が業界から評価される。

そして観客である私たちは、スクリーンの中の人間を見ている。

しかし、映画を観終わった後には、

「自分は何を見ていたのか」

と考えさせられる。

つまり最後には、

観客自身が「見る」という行為を見返されている。

私たちは、なぜ映画を見るのか

ここで、少しだけ観客側にも目を向けたい。

私たちは映画を見る。

他人の人生を見る。

他人の恋愛を見る。

他人の暴力を見る。

他人の死を見る。

そして、それを「物語」として消費する。

もちろん映画なのだから、それ自体が悪いわけではない。

しかし、

「自分は安全な場所から他人を見ている」

という事実は残る。

『X』三部作は、その構造を意識させる。

私たちは観客であり、見る側だ。

しかし、スクリーンの向こう側では、

人間の身体や欲望や人生が「見るもの」として提示されている。

そのことを意識すると、映画を見るという行為そのものが少し違って見えてくる。

見ることと消費すること

人間を見る。

人間を記録する。

人間を評価する。

人間を消費する。

この四つは、近い場所にある。

映画を見ることもそうだ。

テレビを見ることもそうだ。

SNSを見ることもそうだ。

他人の人生を眺めることは、簡単になった。

しかし、その人間が実際には一人の生活者であることを忘れると、

「コンテンツ」

としてしか見えなくなる。

これは『MaXXXine』で描かれる映画産業の問題ともつながる。

人間がスターになる。

スターが商品になる。

商品として売れなくなれば、次の人間が現れる。

その構造は、SNSでも規模を小さくして繰り返されている。

それでも「見ること」はなくならない

だからといって、

「人間を見るのは悪い」

という結論にはならない。

人間は他人を見なければ学ぶことができない。

映画を見ることで、自分とは違う人生を知ることもできる。

絵画を見ることで、昔の人間の視線に触れることもできる。

テレビを見ることで、社会の出来事を知ることもできる。

SNSを見ることで、遠く離れた人間の生活を知ることもできる。

問題は、

「見ること」そのものではなく、見たものをどう扱うのか

なのだと思う。

「見る」から「理解する」へ

他人を見る。

そこで終われば、ただの観察になる。

しかし、

「この人はなぜこうしているのだろう」

と考え始めれば、少し違ってくる。

表情の奥を見る。

その人が置かれた環境を見る。

過去を見る。

事情を見る。

そうすると、一つの映像だけでは分からなかったものが見えてくる。

『Pearl』の笑顔も同じだ。

「怖い笑顔」

で終わらせることもできる。

しかし、

「なぜ彼女は最後まで笑っていたのだろう」

と考えると、映画は別の姿を見せ始める。

視線には責任がある

人間を見るということには、ある種の責任があるのかもしれない。

見たものをどう解釈するのか。

どう語るのか。

どこまで広めるのか。

そして、相手を一つのイメージだけで決めつけないのか。

これは映画でも、報道でも、SNSでも同じだ。

「見たから分かった」

とは限らない。

むしろ、

見たからこそ、分からない部分があることに気づく。

その姿勢が必要なのかもしれない。

三部作が描いたのは「視線の連鎖」だった

ここまで『Pearl』『X』『MaXXXine』を振り返ると、この三部作は一人の女性の物語であると同時に、

視線が人間から人間へ連鎖していく物語

だったようにも思える。

Pearlは映画を見る。

映画に憧れる。

見られる人間になりたいと思う。

『X』では、人間がカメラを向ける。

撮影される人間がいる。

そして、それを見る観客がいる。

『MaXXXine』では、ハリウッドという巨大な視線の中で、マキシーン自身が評価される。

さらに、そのすべてを私たち観客が見ている。

視線が、

見る → 見られる → 見る

と循環している。

境界線は、実は一本ではない

だから「見る側」と「見られる側」の間に、一本の明確な線を引くことはできない。

人間は、

ある瞬間には見る側であり、

別の瞬間には見られる側になる。

会社では部下を評価していても、上司から評価される。

SNSでは他人の投稿を見ていても、自分の投稿は見られている。

映画を観ていても、その映画によって自分自身の価値観を問い返される。

つまり、

視線は一方向には流れていない。

人間同士の間を行き来している。

『Pearl』の笑顔に戻ってくる

最後に、もう一度『Pearl』の笑顔に戻りたい。

あの笑顔が怖いのは、単に狂気を表現しているからではない。

そこには、

「見てほしい」

という願いと、

「本当の自分は見られたくない」

という矛盾が同時に存在しているように見えるからだ。

笑っている。

しかし苦しんでいる。

見せている。

しかし隠している。

その境界が崩れている。

そして、その姿を私たちはスクリーン越しに見ている。

この瞬間、私たち観客もまた、

「人間を見ている側」

に立っている。

だからこそ、あの笑顔は映画が終わった後も残る。

見ることは、世界との距離を測ること

人間は他人を見ることで、自分の位置を確認する。

あの人は自分とは違う。

あの人には自分と似たところがある。

この人の生き方は理解できる。

これは理解できない。

そうやって他人との距離を測る。

映画を見ることも、その一つなのかもしれない。

自分とは違う人間を見る。

違う時代を見る。

違う場所を見る。

違う欲望を見る。

そして、

「自分ならどうするだろう」

と考える。

その瞬間、映画は単なる娯楽から、自分自身を見るための鏡に変わる。

三部作の向こう側にあるもの

『Pearl』『X』『MaXXXine』は、ホラー映画として作られている。

しかし、私に残ったのは恐怖だけではなかった。

なぜ人間は見られたいのか。

なぜ人間は他人を見たがるのか。

なぜ人間は、自分を演じるのか。

なぜ場所が変わっても欲望は残るのか。

なぜ正反対に見える宗教と映画産業が、時に同じような構造を持つのか。

なぜ記録することが、人間を救うことにも、利用することにもなるのか。

そう考えていくと、この三部作は「殺人映画」から少しずつ別のものに見えてくる。

それは、

人間が他人を見ることで、自分自身を確認している物語

なのかもしれない。

「見る側」で終わらないために

私たちは毎日、誰かを見る。

テレビを見る。

映画を見る。

SNSを見る。

街を歩く人を見る。

ニュースを見る。

そして、その人間について何かを判断する。

しかし、そのとき一度だけ、

「自分は今、この人をどのように見ているのだろう」

と考えてみる。

それだけでも、視線の意味は少し変わるのではないだろうか。

人間は完全に「見る側」にもなれない。

完全に「見られる側」にもなれない。

その間を行き来しながら生きている。

だから、

「見る/見られる」の境界線とは、他人との間に引かれた線ではなく、自分自身の中にも引かれている線なのかもしれない。

『Pearl』の笑顔。

『X』のカメラ。

『MaXXXine』のハリウッド。

そして、現代のスマートフォン。

そこに映っているものは、それぞれ違う。

しかし、その向こう側にいるのは、

「誰かに見てほしい」

と願いながら、

「本当の自分まで見られるのは怖い」

と思っている人間だ。

その矛盾こそが、人間なのかもしれない。


次の記事

『Pearl』『X』『MaXXXine』を通して見えてきた「見る/見られる」の境界線は、映画の中だけに存在するものではありません。絵画、テレビ、SNS、そして私たちの日常にも、人間の視線は形を変えながら残っています。映画を離れたところで、私たちは誰を見て、誰から見られているのでしょうか。

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