『運び屋』の老人とタチコマの未来

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最近、クリント・イーストウッド監督・主演の『運び屋』を見返していた。

主人公アールは決して立派な人物ではない。

家族との時間を犠牲にして仕事に打ち込み、年老いてからは裏社会の運び屋として生計を立てている。口も悪く、現代なら問題視されるような発言も平然と口にする。

それでも、なぜか憎めない。

困っている人を見ると放っておけないからだろうか。

彼を見ていると、子供の頃に近所にいた大人たちを思い出す。


当時の地方には、今では考えられないほど人がいた。

見知らぬ人同士でも自然に言葉を交わし、困っている人がいれば手を貸した。

ある日、父の前を走る車の荷台からバッグがいくつも道路へ落ちたことがあった。

父はそれを拾い集め、近所の交番へ届けた。

しばらくして持ち主の女性が現れ、お礼をしようとしたが、母はそれを断った。

「困った時はお互い様」

そう言って帰ったという。

当時は珍しい話ではなかった。


もっとも、あの時代を手放しで懐かしむ気にもなれない。

人情味があった反面、荒っぽい人間も多かった。

面倒見の良い人がいる一方で、ヤクザ者も珍しくなかった。

人との距離が近い社会には温かさもあれば息苦しさもある。

良いことばかりではなかった。


現在の新興住宅地では、近所付き合いはずっと薄くなった。

親しく話す相手もいない。

深く関わらなくなった分、相手の断片的な情報だけで判断されることも増えたように思う。

関わらないのに観察する。

そんな不思議な距離感が日常になっている。

昔は人と関わり過ぎる社会だった。

今は人と関わらない社会になったのかもしれない。


最近では、親や親類にさえ悩みを打ち明けることが難しい時代になった。

その代わりにAIへ相談する人が増えているという。

相手に気を遣わなくて済む。

感情的な衝突もない。

必要な時だけ話せる。

そう考えると、AIが人間関係の一部を補助する未来は決して不自然な話ではない。


私は以前から『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』に登場するタチコマたちが好きだった。

彼らは互いに情報を共有しながら雑談を続ける。

担当のバトーについて語り合い、分析を重ねた末に「僕らはやっぱりバトーさんが好き」という結論にたどり着く。

あの姿はどこか猫の集会に似ている。

理屈を超えた関係性のようなものが見えて微笑ましい。


もっとも、現実はタチコマほど格好良くはないだろう。

実際に普及するのは、掃除ロボットや見守り機器のような存在かもしれない。

掃除をしながら家の中を巡回し、異常があれば知らせる。

雑談にも付き合う。

防犯や健康管理も担う。

そんな家電製品が高齢者の暮らしを支える未来は十分に考えられる。


考えてみれば、それは昔の近所のおばちゃんに少し似ている。

「今日は元気そうだね」

「最近夜更かししてないかい」

「戸締まりは大丈夫かい」

そんな世間話の延長線上で、人の様子を見守っていた。

未来では、その役割を機械が部分的に引き継ぐのかもしれない。


独居老人の孤独死が社会問題として語られることがある。

しかし家電同士が情報を共有し、生活の変化を検知し、必要に応じて通報する仕組みが整えば、発見の遅れは大きく減るだろう。

もちろん機械は人間にはなれない。

だが、人手不足と高齢化が進む社会では、人間だけで支え合うことにも限界がある。


『運び屋』のアールは、人と人が直接関わる時代の名残のような存在だった。

口は悪い。

不器用でもある。

それでも困っている人を放っておけない。

そんな人々が少なくなった社会では、その役割の一部をAIや家電が引き継ぐことになるのかもしれない。

未来の見守り役は、タチコマのような思考戦車ではなく、掃除機や冷蔵庫や照明かもしれない。

それは少し味気ない未来にも見える。

しかし、人との適度な距離を保ちながら安心して暮らせるのなら、案外悪くないような気もしている。


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