『タクシードライバー』──夜の街を走りながら、社会を嫌いになっていく男

映画から考える社会

映画を観ていると、「なぜか最後まで観続けてしまう作品」がある。

『タクシードライバー』は、私にとってそんな映画の一つだ。

派手なアクションが続くわけでもない。主人公が超人的な能力を持っているわけでもない。それなのに、夜のニューヨークを走る一台のタクシーから目が離せなくなる。

主人公のトラヴィス・ビックルは、ベトナム戦争帰りの元海兵隊員。夜勤のタクシー運転手として、深夜の街を走り続けている。

昼間とは違うニューヨーク。

酔っ払い、娼婦、犯罪者、浮浪者、深夜まで働く人々。

トラヴィスは、その街を毎晩見続ける。

しかし、街を見ているだけなのに、いつの間にか彼の中で「街そのものが腐っている」という感覚が膨らんでいく。

ここが、この映画の怖いところだ。

きっかけは、案外くだらない

トラヴィスは勤務中に見かけた女性、ベッツィに惹かれる。

彼女に近づき、デートに誘う。

ところが、そのデートの選択を思い切り間違えてしまう。

その結果、彼女から拒絶される。

ここだけ切り取れば、少し笑ってしまう。

「いや、それは振られて当然ではないか」

そんな話なのだ。

ところがトラヴィスは、自分の選択を反省して終わるのではない。

次第に、

「この街は腐っている」

「人間は腐っている」

という方向へ考えを広げていく。

自分の失敗や孤独を、自分自身の問題として処理するのではなく、社会全体の問題に置き換えてしまうのである。

考えてみれば、人間にはこういうところがある。

仕事で嫌なことが続いた日など、

「今日は疲れた」

で終わればいいものを、

「最近の世の中はおかしい」

「人間関係なんて面倒くさい」

と、話をどんどん大きくしてしまう。

トラヴィスは、その拡大が極端なところまで進んでしまった男なのだと思う。

夜のタクシーという孤独

トラヴィスにとって、タクシーは仕事場であると同時に、社会を眺める窓でもある。

街の中を走っているのに、彼自身は街の住人ではない。

人々を毎晩見ているのに、その人々とつながっているわけでもない。

客を乗せ、会話を聞き、また夜の街へ戻っていく。

この繰り返しが、彼の孤独を少しずつ深くしていく。

そして、ある夜、一人の紳士がタクシーに乗り込んでくる。

男は、浮気をしている妻をマグナムで殺すという趣旨の話をトラヴィスにする。

何気ない客の会話だったのかもしれない。

しかし、その言葉はトラヴィスの中に残る。

やがて彼は銃を手に入れる。

銃を手に入れて、自分を作り始める

トラヴィスが銃を持ったこと以上に印象的なのは、銃を持つことで自分自身を作り変えていくところだ。

軍用ジャケットを着る。

身体を鍛える。

銃を隠す仕掛けを作る。

袖から銃が滑り出してくる。

そして鏡の前で、自分自身に向かって語りかける。

「You talkin’ to me?」

この場面は、単なる銃の格好良さを見せるシーンではない。

誰もいない鏡に向かって、自分自身を相手にしている。

トラヴィスは、銃を持つことで「何者か」になろうとしているのではないか。

元軍人という肩書きはある。

しかし、彼はランボーのような超人的な戦闘能力を持っているわけではない。

むしろ不器用だ。

人付き合いも苦手で、女性との距離の取り方も分からない。

それでも銃を手に入れ、軍用ジャケットを着て、モヒカンにする。

外見を変えることで、自分の中に新しい役割を作ろうとする。

そこが、この映画の妙に現実的なところでもある。

「世直し」を始めた男

トラヴィスは、次第に自分を「街を浄化する人間」のように考えるようになる。

しかし、ここまで冷静に整理すると、かなり滑稽な話でもある。

勤務中に気になった女性にアプローチする。

見事に振られる。

自分の失敗をきっかけに世の中が腐っていると思い始める。

銃を買う。

そして街を変えようとする。

こう書いてしまうと、

「いや、そこまで話を大きくするか」

と言いたくなる。

ところが、映画はそんなトラヴィスを単純な笑い話にはしない。

夜のニューヨークが、その滑稽さを包み込んでしまうからだ。

ネオンが人間の滑稽さを消していく

雨に濡れた道路。

タクシーのフロントガラス。

赤や緑のネオン。

深夜の街を走る車。

トラヴィスの行動だけを昼間の明るい場所で見せたなら、もっと滑稽に見えただろう。

しかし、映画は彼を夜の街の中に置く。

すると、彼の孤独も怒りも妄想も、ニューヨークの風景の一部になってしまう。

私はこの映画を観ていると、トラヴィスの滑稽さに笑いながらも、最後には妙な寂しさが残る。

人間の弱さを、夜のネオンが隠してしまうような感覚だ。

そして、なぜか彼は英雄になる

さらに、この映画には強烈な皮肉がある。

トラヴィスは自分の中で「世直し」をしようとして、暴力へ向かっていく。

ところが社会は、彼の内面を知ることなく、彼を英雄として扱ってしまう。

彼が何を考えていたのか。

なぜそこまで暴力へ向かったのか。

そんなことは、社会には関係ない。

結果だけが切り取られ、「少女を救った勇敢な男」という物語に変換される。

本人の中では「世直し」。

社会から見れば「英雄」。

観客から見れば、

「いや、この男はかなり危ないぞ」

である。

この三つが同時に成立してしまう。

だから私は、ここで少し笑ってしまう。

しかし、その笑いも長くは続かない。

なぜなら、最後にトラヴィスは再びタクシーに乗り、夜の街へ戻っていくからだ。

街が本当に変わったわけではない。

トラヴィス自身が社会に適応したわけでもない。

ただ、一つの事件が社会によって「英雄物語」に編集されただけなのかもしれない。

トラヴィスを笑えない

この映画を観ていて、私が一番引っかかるのはここだ。

トラヴィスの行動そのものには共感できない。

しかし、彼の内側にある感情の一部には、妙に覚えがある。

仕事をしていると、人間関係が煩わしくなることがある。

目の前の仕事だけで疲れているのに、そこへ人間同士の気遣いや都合が重なってくる。

すると、

「人間って面倒くさいな」

と思うことがある。

そこで終わればいい。

しかし疲れていると、その感情が少しずつ膨らんで、

「世の中そのものが面倒くさい」

というところまで行ってしまうことがある。

もちろん、普通はそこで酒でも飲んで寝れば終わる。

トラヴィスには、それを止めるものがなかった。

誰かと雑談する場所もない。

自分の考えを笑い飛ばしてくれる相手もいない。

夜の街を走りながら、自分の中で考え続ける。

そして、自分の考えだけが現実になっていく。

だから『タクシードライバー』は、単純な「狂った男の映画」ではないと思う。

孤独な人間が、自分の中だけで考え続けたとき、現実と妄想の境界が少しずつ曖昧になっていく。

その危うさを描いた映画なのだと思う。

夜の街は何も答えてくれない

それでも、映画の最後に残るのは暴力ではない。

私の記憶に残るのは、やはり夜の街だ。

タクシーが走る。

ネオンが流れる。

雨に濡れた道路が光る。

その中を、一人の男がまた走っている。

トラヴィスは英雄になった。

しかし、本当に救われたのかは分からない。

街が浄化されたわけでもない。

彼自身が変わったわけでもない。

ただ、夜はまた始まる。

『タクシードライバー』をものすごく乱暴に要約すれば、

「勤務中に気になった女性に声をかけて振られた男が、世の中を腐っていると思い込み、銃を持って世直しを始めたら、なぜか英雄になった」

そんな、少し笑ってしまうような話でもある。

けれど、その滑稽な男を包み込んでいる夜のニューヨークが美しい。

ネオンが、人間の愚かさも、孤独も、怒りも、全部ぼんやりと消していく。

だから映画が終わっても、トラヴィスの狂気より、夜の街の光のほうが記憶に残る。

そして私は、その夜景を見ながら思う。

トラヴィスを笑うことはできる。
でも、彼の中にある「もう人間関係に疲れた」という感情まで笑うことはできない。

そこが、『タクシードライバー』が今でも妙に自分の近くにある映画として残り続ける理由なのかもしれない。


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