「視線の境界線──『Pearl』『X』『MaXXXine』から考える人間」7 絵画、テレビ、映画、SNS──人間を記録する視線

映画から考える社会

『Pearl』『X』『MaXXXine』を観ていると、何度もカメラが登場する。

人間を撮影する。

身体を映す。

表情を残す。

そして、その映像を誰かが見る。

しかし、考えてみれば「人間を記録する」という行為は、映画から始まったものではない。

映画が登場するはるか以前から、人間は他人の姿を残してきた。

絵画。

写真。

新聞。

テレビ。

映画。

そして現在では、SNS。

技術は大きく変わった。

しかし、

「誰かを見て、その姿を残したい」

という人間の欲望そのものは、あまり変わっていないのかもしれない。

絵画──最初の「切り取り」

写真や映画が存在しなかった時代、人間の姿を残す手段の一つが絵画だった。

肖像画を描く。

人物を描く。

町の風景を描く。

祭りを描く。

日常生活を描く。

絵師は、目の前にある現実をそのまま保存しているわけではない。

何を描くのかを選ぶ。

どこから見るのかを決める。

どの表情を残すのかを決める。

つまり、絵画には最初から、

「見る人間の視線」

が入っている。

現実そのものを残しているのではなく、

「その人が見た現実」

を残している。

ここが重要なのだと思う。

葛飾応為から考える「見る」という行為

以前、葛飾応為について考えたときにも、人間をどう見るのかという問題に興味を持った。

彼女の作品を見ると、単に人物を描いているだけではなく、光や表情、身体の見え方そのものに視線を感じる。

同じ人物でも、どこから見るかによって印象は変わる。

正面から見るのか。

横から見るのか。

明るい場所で見るのか。

暗い場所で見るのか。

何を強調するのか。

何を隠すのか。

これは映画にも写真にも共通している。

だから、絵画と映画は時代も技術も違うが、

「人間をどのように見せるのか」

という点では意外に近い。

写真──「本当に残した」という錯覚

写真が登場すると、人間はさらに簡単に姿を記録できるようになった。

絵を描く必要がない。

カメラを向ければ、その瞬間を残すことができる。

そのため写真には、

「現実そのものを記録している」

という印象がある。

しかし、写真にも撮影者の視線がある。

どこから撮るのか。

誰を入れるのか。

誰を外すのか。

いつシャッターを切るのか。

同じ場所でも、撮影する人によって写真は変わる。

つまり写真もまた、現実そのものではない。

切り取られた現実なのだ。

テレビ──見る人の数が一気に増える

テレビが登場すると、人間の視線はさらに大きく変わる。

それまでの絵画や写真は、基本的には一枚の作品を自分から見に行くものだった。

しかしテレビでは、家庭の中に映像が入ってくる。

ニュース。

ドラマ。

歌番組。

バラエティ。

スポーツ。

街の人々。

芸能人。

テレビは、人間の生活そのものを「見る対象」に変えていった。

そしてテレビに出演する人間は、

「見られること」を仕事にする人間

になった。

俳優。

歌手。

タレント。

司会者。

アナウンサー。

彼らは、カメラの前で自分自身を演じる。

普段の自分とは違う人格を作る。

明るく振る舞う。

笑顔を作る。

視聴者に分かりやすい言葉を使う。

これは、以前書いた『Pearl』の記事にもつながる。

『Pearl』の笑顔とテレビの笑顔

『Pearl』の最後に残る、あの笑顔。

感情と表情が一致していない。

それでも笑顔を維持し続ける。

あの表情を見ていると、私は「見られるための人格」を考えてしまう。

テレビに出る人間も、ある意味では同じだ。

もちろん、テレビの出演者が嘘をついているという意味ではない。

仕事として、

「見られる自分」

を作っているということだ。

普段は静かな人間でも、カメラが回れば明るく話す。

疲れていても笑顔を作る。

番組の雰囲気に合わせる。

それはプロとして必要な技術でもある。

しかし、見ている側からすれば、

「今見ているのは、この人の本当の姿なのだろうか」

という疑問が残ることもある。

『Pearl』が不気味なのは、まさにこの「演じる人格」が極端な形で現れているからなのかもしれない。

映画──「人間を演じる」ことを商品にする

映画になると、この構造はさらに複雑になる。

俳優は役を演じる。

監督は、その演技を撮影する。

編集者が映像をつなぐ。

音楽が加わる。

照明が加わる。

そして観客が完成した作品を見る。

つまり映画では、

人間を演じる人間

と、

人間を撮影する人間

と、

それを見る人間

が存在する。

『X』三部作は、この関係そのものを題材にしている。

『X』ではポルノ映画の撮影が行われる。

『MaXXXine』では、マキシーンがハリウッドでスターを目指す。

そして映画の中では、さらに殺人そのものまで映像化される。

人間の身体。

欲望。

演技。

死。

あらゆるものが「映像にできるもの」になっていく。

カメラは「記録装置」であると同時に「選別装置」でもある

ここで一つ考えたいことがある。

カメラは現実を記録する。

しかし、カメラに映らなかったものは記録されない。

つまり、カメラは現実を残すだけではなく、

「何を残すか」を選ぶ装置

でもある。

映画なら、監督が決める。

テレビなら、番組制作者が決める。

ニュースなら、編集部が決める。

写真なら、撮影者が決める。

そしてSNSでは、本人が決めることもある。

何を見せるのか。

何を隠すのか。

どんな表情を載せるのか。

どの瞬間を切り取るのか。

記録には、必ず選択がある。

SNS──誰もが「撮る側」と「撮られる側」になった

そして現在、その選択を誰でもできるようになった。

スマートフォンを持っていれば、誰でもカメラを持っている。

写真を撮る。

動画を撮る。

投稿する。

コメントする。

他人を見る。

自分も見られる。

かつては、テレビや映画に出演する人間だけが「見られる側」だった。

しかし今では、一般人も日常的に自分自身を発信している。

食事。

旅行。

仕事。

趣味。

家族。

ペット。

買ったもの。

日常の出来事。

人生そのものが、少しずつ「公開可能な映像」になっている。

SNSでは「自分自身」が作品になる

SNSの面白いところは、他人から撮影されるだけではないことだ。

自分で自分を撮る。

自分で文章を書く。

自分で写真を選ぶ。

自分でプロフィールを作る。

つまり、

自分自身を編集して公開する。

これは『MaXXXine』のマキシーンにも少し似ている。

自分をどう見せるのか。

どんな人物として認識されたいのか。

どの部分を強調するのか。

どの部分を隠すのか。

違うのは、SNSではそれを一般の人間が日常的に行っていることだ。

つまり現代では、誰もが小さな「映画スター」のように、

「見られる自分」

を作っているとも言える。

「自分らしさ」さえ編集される

SNSでは、

「自分らしく発信しよう」

という言葉がよく使われる。

しかし、その「自分らしさ」も編集されている。

写真を選ぶ。

文章を直す。

投稿するタイミングを考える。

見せたくない部分は載せない。

誰かからどう見られるのかを考える。

つまり、

「自分らしさを見せるために、自分を編集する」

という矛盾が生まれる。

もちろん、それ自体が悪いわけではない。

人間は昔から、人前に出るときには服装を整え、言葉を選び、表情を作ってきた。

SNSは、それを誰でもできるようにしただけなのかもしれない。

見られたい。でも、全部は見られたくない

ここには人間の面白い矛盾がある。

誰かに見てほしい。

でも、全部を見られるのは嫌だ。

評価されたい。

しかし、悪く評価されたくはない。

自分を知ってほしい。

でも、知られすぎるのは怖い。

これは『Pearl』の「見られたい」という欲望とも、『MaXXXine』の「見られることで成功したい」という欲望ともつながっている。

人間は、

「自分を見てほしい」という欲望と、「自分を見られすぎたくない」という欲望を同時に持っている。

SNSは、その矛盾を日常化した場所なのかもしれない。

記録されることで、人間は過去になる

もう一つ、記録には面白い性質がある。

記録された瞬間は「現在」でも、時間が経てば「過去」になる。

写真を見る。

昔のテレビ映像を見る。

古い映画を見る。

昔のSNS投稿を見る。

すると、その時代の人間が突然目の前に現れる。

もう存在しない人。

もう変わってしまった町。

なくなった店。

昔の生活。

昔の服装。

昔の言葉。

映像や写真は、時間を保存する。

だからこそ、記録には大きな価値がある。

しかし同時に、そこに映っている人間は、自分が生きていた時代から切り離されてしまう。

「残すこと」は、本当に本人のためなのか

ここで『MaXXXine』の殺人映像の問題に戻ってくる。

映像として残すことは、本来なら「記録」だ。

しかし、その記録を誰が、何のために見るのか。

そこに問題がある。

本人が望んで残したのか。

他人が勝手に残したのか。

家族のためなのか。

社会のためなのか。

娯楽のためなのか。

思想のためなのか。

同じ「記録」という言葉でも、意味はまったく違う。

だから、

「残すことは良いことだ」

と単純には言えない。

記録する側だけでなく、

記録される側の意思

まで考えなければならない。

人間を記録することは、人間を固定することでもある

さらに、記録にはもう一つの怖さがある。

人間を一つの瞬間に固定してしまうことだ。

若い頃の写真。

昔のテレビ映像。

映画の中の姿。

SNSに投稿した過去の自分。

実際の人間は、その後も変化していく。

しかし記録された姿は変わらない。

20歳の自分は、40歳になっても20歳のまま残る。

昔の失敗も、昔の発言も、映像や写真として残れば消えない。

だから現代では、

「過去の自分が、現在の自分を追いかけてくる」

ということも起こる。

これは、過去の事件を抱えながらハリウッドで新しい人生を作ろうとするマキシーンにも重なる。

絵画からSNSまで、変わったのは速度だけなのかもしれない

絵画。

写真。

テレビ。

映画。

SNS。

こうして並べてみると、技術の進歩はものすごい。

一枚の絵を描くには時間が必要だった。

写真は一瞬を残せるようになった。

テレビは大量の人間に映像を届けた。

映画は物語を映像として残した。

SNSでは、個人が世界中へ瞬時に発信できる。

しかし、その根底には、

「誰かを見たい」

「自分を見てほしい」

という欲望がある。

変わったのは、見ることと見られることの速度と規模なのかもしれない。

「見ること」は、人間を理解することなのか

ここで、もう一つ疑問が残る。

人間を映像に残せば、その人間を理解できるのだろうか。

必ずしもそうではない。

むしろ、一部分だけを見て、その人間全体を理解したつもりになる危険もある。

笑顔を見て、

「幸せそうだ」

と思う。

怒った顔を見て、

「怖い人だ」

と思う。

テレビで話す姿を見て、

「明るい人だ」

と思う。

SNSの投稿を見て、

「充実した人生を送っている」

と思う。

しかし、それが本人のすべてではない。

映像は、その人間の一部分を切り取っているだけだ。

『Pearl』の笑顔が怖かったのも、そこにあるのかもしれない。

笑顔だけを見れば幸福に見える。

しかし、その内側には別の感情がある。

「見えているもの」と「実際に存在するもの」は、必ずしも同じではない。

人間は「見えるもの」だけではできていない

絵画も。

写真も。

テレビも。

映画も。

SNSも。

人間のすべてを映すことはできない。

どれだけ高性能なカメラでも、人間の内面そのものを撮影することはできない。

だから私たちは、映像を見ながら想像する。

「この人は何を考えているのだろう」

「本当はどう感じているのだろう」

その想像こそが、人間を見るという行為の面白さでもある。

同時に、危険性でもある。

想像したものを「事実」だと思い込んでしまうからだ。

『X』三部作が現代までつながる理由

『Pearl』『X』『MaXXXine』は、1980年代のハリウッドを舞台にしている。

しかし、そのテーマは現在にも続いている。

自分を見せる。

他人を見る。

映像を残す。

誰かに評価される。

自分自身を演出する。

その意味では、スマートフォンを持っている現代人も、

小さなカメラの前で生きている。

自分の姿を記録し、

誰かの姿を見て、

自分も誰かから見られている。

その循環の中で、

「本当の自分」

「見せている自分」

の境界が少しずつ曖昧になっていく。

視線は、時代を超えて残る

葛飾応為が描いた人物も。

昔のテレビに映った人間も。

映画の中の俳優も。

SNSに投稿された一般人も。

それぞれの時代を生きている。

媒体は違う。

技術も違う。

社会も違う。

しかし、そこには共通して、

「誰かが誰かを見ている」

という関係がある。

そして、見られる側もまた、自分がどう見られるのかを意識する。

人間は、完全に「素の自分」のまま社会を生きることができない。

誰かに見られる以上、

少しだけ自分を演じる。

少しだけ自分を隠す。

少しだけ自分を作る。

その積み重ねが、社会の中で生きるための「人格」になっていく。

『Pearl』の笑顔も。

『X』のカメラも。

『MaXXXine』のスターへの執着も。

そして、現代のSNSも。

すべては、

「人間は誰かに見られることで、自分自身を意識する」

というところでつながっているのかもしれない。

だから、絵画からSNSまでを振り返ると、単純に「記録技術が進歩した」とだけ考えることはできない。

技術が進歩するたびに、

人間は「見ること」と「見られること」に、より深く巻き込まれてきた。

そして次に考えたいのは、

そこまでして人間は、なぜ「見られたい」のだろうか。

その欲望は、承認欲求という一言だけで説明できるものなのだろうか。

もしかすると「見られること」は、人間にとって単なる欲望ではなく、

「自分がここに存在している」と確かめるための行為

なのかもしれない。


次の記事

ここまで見てくると、「見る/見られる」という関係は、単なる娯楽や記録ではなく、自分がここに存在していることを確かめる行為にも見えてきます。では、人はなぜそこまで他者の視線を求めるのでしょうか。次は『Pearl』の「スターになりたい」という欲望から、SNSや現代社会の承認欲求まで広げて、「見られたい」という欲望は、どこから生まれるのかを考えてみたいと思います。

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