昔の映画を観ていると、不思議なことに気づくことがある。
決して現代のような鍛え上げられた身体ではないのに、妙な説得力があるのだ。
たとえば1960年の映画『スパルタカス』で主演を務めたカーク・ダグラス。
あるいは若き日のチャールズ・ブロンソン。
もちろん当時の彼らも十分に屈強だった。
しかし現代のボディビルダーやフィットネスモデルのような身体とは少し違う。
筋肉の量の問題ではない。
画面越しに伝わってくる「強さの質」が違うのである。
当時の私は、その違いをうまく説明できなかった。
単に昔の映画だからそう見えるのだろうと思っていた。
しかし最近になって、その違和感の正体を少し考えるようになった。
彼らの身体は、「見せるため」に作られた身体ではなかったのかもしれない。
もちろん俳優である以上、人に見られる仕事ではある。
それでも、どこか生活の延長線上にあるような身体に見える。
一方で現代はどうだろう。
ジムに通い、食事を管理し、身体を整える。
SNSを開けば、鍛え上げられた身体がいくらでも目に入る。
努力の結果として作られた身体であり、それ自体は素晴らしいことだと思う。
だが同時に、身体が「見せるためのもの」へ変化しているようにも感じる。
かつて筋肉は結果だった。
重い物を持ち、働き、身体を使う。
その結果として筋肉が付いた。
しかし今は少し違う。
筋肉そのものが目的になっている。
鍛えるために鍛える。
見せるために作る。
もちろん、それが悪いという話ではない。
むしろ現代の身体は、高度な自己管理の成果と言えるだろう。
ただ、同じ筋肉でありながら、そこに込められた意味は随分と変わったように思える。
そんなことを考えていると、時々農作業中の人の姿に目が留まることがある。
汗を拭いながら作業を続ける農夫。
現場で働く職人。
彼らの身体は決して派手ではない。
しかし、なぜか目を引く。
何かが違う。
だが、その違いが何なのかはまだよく分からない。
筋肉の量なのか。
身体の使い方なのか。
あるいは別の何かなのか。
ただ一つ言えるのは、人はどうやら筋肉そのものを見ているわけではないらしいということだ。
私たちは身体を見ながら、実はその奥にある何かを見ているのかもしれない。
その「何か」が何なのか。
少し考えてみたいと思う。
『使う筋肉と見せる筋肉――時代が変えた身体の意味』
身体の役割は時代とともに変わりました。
では私たちは、筋肉そのものではなく、何を見て「信頼」や「説得力」を感じているのでしょうか。
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『見た目の先にあるもの――人は何を信用しているのか』



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