今思えば、私はあの店の味を覚えていたわけではないのかもしれない。
覚えていたのは、ラーメンでもスパゲティでもなかった。
そこにいた人たちの気配だった。
熊さんの声。
白いシャツに短髪の姿。
忙しそうに店内を歩き回る足取り。
そして厨房の奥で、ふと現れる奥さまの白い帽子。
料理は日々変わっていたはずだ。
それでも記憶の中では、すべてがひとつの風景として残っている。
店とは、そういうものだったのかもしれない。
そして、渡すことのなかった黒いボータイ。
それは今、別の形になって、静かに生活の中に溶けている。
消えたのではなく、形を変えただけだ。
猫の首輪として残ったそれを見るたびに思う。
あの店も、熊さんも、奥さまも、息子さんも。
どこかでまだ続いているのではないか、と。
人は店を覚えているのではない。
料理を覚えているのでもない。
そこにいた人間と、自分が過ごしたわずかな時間を覚えているのだ。
そしてその記憶は、時間とともに形を変えながら、生き続ける。
ラーメンの味ではなく。
スパゲティの味でもなく。
ただ、ひとつの“気配”として。
🍥 この章の終わりとして
こうして振り返ってみると、あの店はすでに存在しないにもかかわらず、今もどこかにあるような気がしてくる。
それはたぶん、記憶の中にだけ残る「小さな店」なのだろう。
そして私は今日もまた、その店の続きを少しだけ思い出している。
魅+夜話 第15話 結び ― 記憶は、店ではなく人に残る
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