牛丼と自作服——50代になると人は“自分仕様”へ戻っていく

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深夜、中川家のラジオを流しながらぼんやりしていた。

50代のファッションや食の話をしていたのだが、途中で吉野家の話になった。
牛丼の食べ方や、それぞれの妙なこだわりについて話していたのを聞いていて、妙に自分のことを見ているような気分になった。

最近の牛丼屋は、タッチパネルで注文する形式が増えた。

昔のように「牛丼並ひとつ」とだけ言えば済む空間ではなくなり、

  • つゆだく
  • ネギだく
  • キムチ
  • 七味
  • 紅生姜

などを細かく選び、自分用に調整する場所になっている。

しかも基本的には一人で食べる。
店員との会話も少なく、黙々とタッチパネルを操作し、自分だけの牛丼を組み立てていく。

だからこそ、食べ方にその人の“癖”が出る。

私の場合、紅生姜を異様なほど大量に盛る癖がある。
その上から一味唐辛子を満遍なく振りかける。

気づけば牛丼の表面は赤く染まり、もはや本来の牛丼の姿が見えなくなっている。

それを見た人から、

「牛丼を食べているのか、紅生姜辛子丼を食べているのか分からない」

と言われたことがある。

確かに否定は出来ない。

もはや牛丼本来の味を楽しんでいるのか怪しい状態になっている。
しかし、なぜかこれをやらないと落ち着かないのである。

最初は単なる食の癖だと思っていた。

だが、よく考えると、これは服選びにも似ている。

50代くらいになると、流行り物をそのまま着ても妙に似合わなくなることがある。
若い頃なら勢いで押し切れた服でも、年齢を重ねると“ズレ”が目立つ。

流行を追えば追うほど、

「なんとなく痛い」

方向へ行ってしまうことがある。

だから最近では、「何を着るか」より、「何を削るか」の方が重要になってくる。

実際、私は自分で服を作るようになった。

生地を選び、採寸し、裁断し、自分の感覚に合わせて調整する。

最初は単なる趣味だと思っていたが、今思えば、既製品の違和感に耐えられなくなっていたのかもしれない。

牛丼に大量の紅生姜を載せるのも、自作服を作るのも、根本は同じなのだと思う。

つまり、

「自分に合う形へ調整したい」

のである。

若い頃は、多少無理をしてでも流行や他人の基準へ合わせられる。

しかし年齢を重ねると、人は少しずつ、

  • 落ち着く形
  • 疲れない形
  • 違和感の少ない形

へ戻っていく。

これは老化というより、“調整”に近い。

そして、こういう感覚はブログにも繋がっている気がする。

私は昔から、一般常識や世間の空気に対して、少し引いた位置から見てしまうところがある。

もちろん社会の外に居たいわけではない。
ただ、「なぜ皆そこへ自然に馴染めるのか」が気になるのである。

だから、

  • 一人飯の空気
  • タッチパネル化した外食
  • 中年のファッション
  • 映画の妙な演出
  • ラジオの雑談

などの、普通なら流れていく部分に妙な引っ掛かりを覚える。

ブログに惹かれたのも、そのせいかもしれない。

SNSのように流行へ乗るより、

「自分なりの調整を加えた視点」

を書ける場所だったからだ。

結局、人は年齢を重ねるほど、“自分仕様”へ戻っていく。

牛丼の紅生姜も、自作服も、ブログも、全部その延長線上にあるのだと思う。


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