――私たちは現実ではなく体験を見ている
前章では、実況やDJの語りが単なる情報伝達ではなく、空気や感情を演出する装置であることを書いた。
では映像の場合はどうだろうか。
映画を見ていると、現実にはあり得ないような演出に出会うことがある。
主人公は絶妙なタイミングで目的の人物と再会する。
危機一髪で助かる。
恋人とは劇的な別れを経験する。
インド映画では一人で大勢を相手に戦い、ヒーローが神話の英雄のような活躍を見せることも珍しくない。
冷静に考えれば、現実離れしている。
それでも私たちは、その世界に引き込まれてしまう。
なぜ映画は現実を誇張するのだろうか。
映画は現実を再現するために作られていない
私たちは時々、
「リアルな映画」
という言葉を使う。
しかし考えてみると、映画は最初から現実そのものを再現するために作られてはいない。
もし本当に現実を忠実に映すなら、
朝起きて、
歯を磨き、
通勤し、
特に何も起きずに一日が終わる。
そんな場面が延々と続くことになる。
しかし現実は退屈な時間の方が圧倒的に長い。
映画はその膨大な時間を削り、
意味のある瞬間だけを抜き出している。
つまり映画とは、
現実の記録ではなく、
体験の要約なのである。
誇張は感情を見えやすくする
例えば怒り。
現実の人間は必ずしも怒鳴ったりしない。
むしろ黙り込むことも多い。
しかし映画では、
怒鳴る。
物を投げる。
激しく対立する。
こうした演出が用いられる。
それは感情を分かりやすく可視化するためだ。
悲しみも同じである。
現実では淡々としていても、
映画では雨が降り、
音楽が流れ、
長い沈黙が置かれる。
私たちは現実を見ているのではなく、
感情を理解しやすい形に翻訳された体験を見ている。
インド映画はなぜ世界で受け入れられるのか
この構造はインド映画を見ると分かりやすい。
歌う。
踊る。
敵を何十人も吹き飛ばす。
神話の英雄のような主人公が登場する。
日本人から見ると大げさに感じることもある。
しかしそれは決して未熟な表現ではない。
むしろ感情や価値観を極端な形で可視化しているのである。
勇気。
友情。
家族愛。
正義。
そうした感情を誰にでも伝わる形にすると、自然と誇張は大きくなる。
それはプロレスの実況が熱量を増幅するのと似ている。
日本映画はなぜ静かなのか
一方で日本映画には逆の傾向がある。
感情を説明しない。
結論を語らない。
沈黙が多い。
観客に解釈を委ねる作品も少なくない。
これは優れている、劣っているという話ではない。
映画に何を求めるかの違いである。
インド映画が感情を外へ向けて表現するなら、
日本映画は感情を内側に残す。
どちらも現実そのものではなく、
現実の感じ方を描いている。
私たちは現実を見たいわけではない
ここで少し不思議なことに気づく。
人は「リアルな映画が好きだ」と言いながら、
本当に現実そのままの映像を二時間見続けたいわけではない。
私たちが求めているのは、
現実そのものではなく、
現実を理解した気になる体験なのだ。
だから映画は、
省略し、
誇張し、
演出する。
結論 映画は体験を編集する装置である
ニュースは事実を編集する。
ドキュメンタリーは現実を編集する。
実況やDJは感情を編集する。
そして映画は体験を編集する。
だから映画は現実をそのまま映さない。
現実を誇張し、
省略し、
再構成する。
それは嘘をつくためではない。
人間が理解できる形に翻訳するためである。
考えてみれば、私たちの日常も同じかもしれない。
人は過去を思い出すとき、出来事そのものではなく印象的な場面だけを覚えている。
そう考えると映画とは、現実から最も遠いようでいて、実は人間の記憶や認識に最も近い表現なのかもしれない。
次章では、映画やテレビ以上に私たちの日常へ入り込んでいる存在であるSNSについて考えてみたい。
なぜSNSは現実よりも現実らしく見えるのだろうか。



コメント