さとのか4Kで『新居浜太鼓祭り 2025版』を流し見している。
新居浜といえば、やはり太鼓台である。
豪華な化粧刺繍を施され、金色の飾りをまとった巨大な太鼓台。
テレビ画面越しでも、その金のかかり方はよく分かる。
「こりゃあ、立派だなあ」
などと思いながら眺めている。
ただ、私は現地には行かない。
あの巨大な太鼓台を実際に見てみたい気持ちはあるのだが、あの祭りの中へ自分から入っていくほどの勇気はない。
東予の秋祭りというものは、普段の町の姿を知っている人間からすると、かなり不思議な世界になる。
普段はのどかな町である。
仕事をして、買い物をして、近所の人と世間話をしている。
ところが秋祭りが近づくと、どうも町の空気が変わってくる。
私も東予ではないが、何度か祭りの神輿担ぎに呼ばれたことがある。
そこで見たのが、いわゆる「祭りスイッチ」だった。
普段は大人しい。
むしろ控えめな人だったりする。
ところが祭りになると、声が大きくなる。
妙に熱くなる。
普段なら言わないようなことまで言い始める。
「この人、こんな人だったのか……」
こちらが驚くほどである。
祭りの三日間だけ、別の人格でも入っているのではないかと思うことさえある。
もちろん、祭りなのだから多少羽目を外すのも分かる。
一年に一度くらい、普段とは違う自分になってみる。
それも祭りの役割なのだろう。
ただ、普段から低空飛行で生きている私には、少々高度が高すぎる。
「祭りだからって、そこまで上昇しなくてもいいでしょう」
と、こちらは思ってしまう。
そんなことを考えながら今回の番組を見ていて、さらに驚いたことがある。
この祭りのもともとの目的には、五穀豊穣を願うという意味があったという。
これを知ると、現在の太鼓台の姿が少し違って見えてくる。
昔の人が、
「今年も無事に作物が実りますように」
と願った。
自然の恵みに感謝し、来年も豊かな実りがありますようにと神様に祈る。
ずいぶん素朴な願いである。
ところが長い年月を経て、その祭りは巨大な太鼓台を町中に繰り出すものになった。
豪華な刺繍。
金色の装飾。
巨大な太鼓台。
そして、それを担ぐ人間たちの熱気。
こうなると、少し考えてしまう。
いったい誰を拝んでいるのだろう。
神様なのか。
太鼓台なのか。
それとも、太鼓台を担いでいる自分たちなのか。
五穀豊穣を願って始まった祭りが、いつの間にか「うちの太鼓台を見てくれ」という町の誇りにもなっている。
神様を乗せて運ぶためのものだったはずが、いつしか神輿そのものが主役になっている。
そして、その主役に負けないくらい人間まで熱くなる。
神が人間なのか。
神輿が神なのか。
その境界線が、祭りの三日間だけ少し曖昧になる。
考えてみれば、これも祭りの面白さなのかもしれない。
普段は社会人として、近所の人間として、家庭の一員として、それぞれの場所に収まっている人間が、祭りになると共同体の一員として前へ出てくる。
「俺」ではなく「俺たち」。
「自分」ではなく「うちの地区」。
普段なら抑えているものまで、少しずつ表へ出てくる。
映画の『パージ』を思い出してしまうのも、そんなところなのかもしれない。
もちろん、現実の祭りが無法地帯になるという話ではない。
ただ、普段なら抑えているものが、祭りという「ハレの日」には少しだけ許される。
大声を出す。
熱くなる。
意地を張る。
集団になる。
そして三日間が終われば、何事もなかったように日常へ戻っていく。
昨日まで威勢よく太鼓台を担いでいた人が、翌日には普通の顔をして仕事へ行く。
これもまた、祭りなのだろう。
そう考えると、祭りとは単に神様へ願いを届ける行事ではないのかもしれない。
人間の中に眠っているものを、一年に一度だけ引っ張り出す行事でもある。
昔は五穀豊穣を願った。
今は町の誇りを背負う。
その間に、神様と人間と太鼓台の立場が、ずいぶん複雑になった。
もしかすると神様のほうが、
「お前ら、私を拝んでいるのか、太鼓台を拝んでいるのか、どっちなんだ?」
と、少々困っているかもしれない。
私はといえば、祭りの輪の中には入らず、テレビのこちら側から眺めている。
「いやあ、立派な太鼓台だなあ」
と缶コーヒーでも飲みながら。
祭りは嫌いではない。
むしろ、こうして外側から眺めていると面白い。
ただし、祭り人にはなりたくない。
三日間だけ野生に戻る人々を眺めながら、私は一年中、低空飛行のままでいい。
神様と神輿と人間。
その境界線が少し分からなくなるくらいが、祭りというものなのかもしれない。


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