気が付けば、同居人の勢いはチャボだけでは終わりませんでした。
わが家の狭い庭には、少しずつ果樹や花木が増えています。
休日になると親父を誘い、苗木屋へ出掛けては「次はこれがいい」「あれも植えてみたい」と、新しい苗を探しています。
思い立ったらまず動く。
それが同居人という人物です。
親父も最初こそ、「そんなに植えてどうする」と言っていたものの、気が付けばスコップを手に穴を掘っています。
この家では反対意見も、いつの間にか作業工程の一つになってしまうようです。
現場監督は同居人。
作業員は親父。
役割分担はいつも変わりません。
そして私は、その二人に同行しながらも、助手席でエアコンの風に当たり、スマートフォンを片手にブログを書いています。
庭に植えられるのは苗木。
私が植えているのは言葉です。
同居人は暮らしを育て、親父は形をつくる。
私は、その一部始終を物語として残しています。
同じ時間を過ごしていても、それぞれが育てているものは少しずつ違うのです。
考えてみれば、人生も折り返し地点を迎えました。
若い頃には、人より動物や植物に囲まれた暮らしを送るなど、想像したこともありませんでした。
猫たちとの日常を書いていたと思えば、今度はチャボの孵化を見守り、その合間には庭の苗木が増えていく。
少しずつ、この家そのものが変わっていきます。
人との関わりを以前より控えるようになってから、不思議と動物や植物と向き合う時間が増えました。
それは偶然なのか、それとも人生が新しい宿題を用意してくれたのか。
その答えは、まだ分かりません。
ただ一つ言えるのは、人も動物も植物も、それぞれが自分の時間を生きているということです。
チャボにはチャボの時間があります。
猫には猫の時間があります。
苗木には、ゆっくりと根を張る時間があります。
そして私たち人間にも、それぞれの時間があります。
その時間は決して止まることはありません。
だからこそ、命を迎えるということは、その時間を共に歩く覚悟を持つことなのだと思います。
もっとも、そんなことを一人で考えている横で、同居人は次に植える苗木を探し、親父は「今度は小屋をもう少し広げようか」と相談しているのでしょう。
この家では、立ち止まって考える者より、先に動く者の方が強いようです。
私は、その後ろを少し遅れて歩きながら、今日も文章を書いています。
ありがたいことに、これだけ家族のことを好き放題に書いているというのに、二人とも私のブログにはほとんど興味を示しません。
それが、この連載を続けられる唯一の救いです。
もし読まれるようになったら、この物語は間違いなく途中で打ち切りになります。
私は悪役として追放され、チャボ計画も、苗木計画も、その後どうなったのかを書くことはできなくなるでしょう。
ですから今日も私は安心して記事を書き続けます。
当事者たちが、自分たちこそが物語の主人公であることに、まだ気付いていないうちに。
そして、おそらく明日もまた、同居人は新しい何かを思いつきます。
私はそれに巻き込まれ、少し困り、少し笑いながら、その一部始終を記録するのでしょう。
結局のところ、この家で一番よく育っているのは、庭の苗木でも、これから生まれてくるチャボでもありません。
次から次へと現実を書き換えていく、同居人の想像力なのかもしれません。
次の記事
庭を育てる人がいます。
命を育てる人がいます。
そして私は、その日々を言葉として育てています。
同じ場所で同じ時間を過ごしていても、人はそれぞれ違うものを大切にしながら生きているものです。
では、なぜ私は出来事の中心に立つのではなく、少し離れた場所から眺め、書き残すことを選ぶのでしょうか。
その答えは、このブログの名前にもなった「野良牛」にあります。
私が「野良牛日誌」という名前に込めた思いを、次の記事でお話ししたいと思います。



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