SNSという名の決闘裁判——『最後の決闘裁判』が映し出す現代の構造

観察記

リドリー・スコット監督の映画『最後の決闘裁判』を流し見していると、不思議と画面の中だけの話には思えなくなった。

舞台は中世フランス。

ある女性が受けた被害を巡り、証明の難しい問題に対して最終的な判断が「決闘」に委ねられる。

勝てば正義。

負ければ嘘。

敗者は名誉を失い、死後も辱めを受ける。

現代の感覚からすると乱暴な仕組みに見える。

しかし、その構造は驚くほど単純だ。

強い者が勝ち、勝った者が正しい。

そう考えると、この物語は決して中世だけの話には見えなくなってくる。

決闘場からタイムラインへ

では現代はどうだろう。

剣は消えた。

鎧も馬もなくなった。

決闘場も存在しない。

その代わりに私たちは、SNSのタイムラインを手に入れた。

SNSでは、虚偽や誇張が混じった話であっても、人々の感情を刺激できれば瞬く間に拡散される。

日本でもワイドショーや週刊誌が扱う話題には、事実だけではなく解釈や演出が加わることが少なくない。

もちろん、それ自体が悪いと言いたいわけではない。

問題は、人間が事実よりも物語を選びやすいことだ。

曖昧な現実よりも、

善と悪。

被害者と加害者。

勝者と敗者。

そうした分かりやすい構図の方が理解しやすい。

その結果、

事実は削られ、

感情は盛られ、

やがて「それらしい真実」が出来上がる。

勝者が正義になる構造

映画の中でも、決闘に勝利した騎士は英雄として扱われる。

しかし、その姿は必ずしも純粋な正義の象徴には見えない。

名誉のため。

正義のため。

家族のため。

そう語りながらも、その奥には「自分がどう見られるか」という欲望が透けて見える。

勝ったから正しいのではない。

勝ったことで「正しかったことにされる」のだ。

この順序の逆転が、物事を静かに歪ませていく。

現代の決闘裁判

現代でも似たようなことは起きている。

SNSでは、拡散された側が正義になりやすい。

沈黙した側は敗者として扱われることもある。

後から事実関係が修正されても、最初に広まった印象が覆ることは少ない。

中世では敗者が処刑された。

現代では敗者が記憶の中で固定される。

方法は違っても、一度下された「世間の判決」を覆すことは容易ではない。

事実よりも物語

映画を見ながら感じたのは、人間は思った以上に「事実」ではなく「物語」によって判断しているということだった。

中世は剣で裁かれた。

現代は物語で裁かれる。

時代は大きく変わったように見えても、勝者の語る物語が正義として残る構造は、案外変わっていないのかもしれない。

事実は一つだが、残る話はいつも都合よく出来ている。

SNSという名の決闘裁判

映画の中で行われた決闘は、一度きりで終わった。

しかし現代の決闘は終わらない。

タイムラインの上では、今日も誰かが裁かれ、誰かが正義になり、誰かが敗者になる。

剣は消えた。

鎧も馬もなくなった。

それでも私たちは、形を変えた決闘裁判を続けているのかもしれない。

事実を探しているつもりで、

本当は物語の勝敗を見ているだけなのだとしたら。


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