『ヤニねこ』を観ていたら、昔の長屋生活を思い出した

人の記憶

Amazonプライムで『ヤニねこ』を流し見している。

人間と猫が共存している世界で、煙草を吸うために生きているような生活能力ゼロの主人公「ヤニねこ」の日常を描いたアニメらしい。

部屋は散らかっている。

浴室もトイレも、あまり人様に見せたい状態ではない。

「猫が出てくる、ほのぼのしたアニメなのかな」と思って眺めていると、どうも様子がおかしい。

しかし、これが猫だから妙に許せてしまう。

人間が同じことをやっていたら、たぶん笑えない。

漫画やアニメだから多少美化されているところもあるだろうが、もし主人公が猫ではなく、妙に生々しい人間の姿で描かれていたら、私は途中で見るのをやめていたかもしれない。

猫という生き物には、そういう得なところがある。

汚いものまで「猫だから仕方ない」で済ませてしまう。

現実の猫だって、ときどきモザイクをかけたくなるような姿を見せる。

トイレから出てきた直後に妙なものを尻につけて歩いていたり、吐いたものを踏んだり、何かをこぼしても知らん顔していたりする。

「お前、それ人間だったら放送できないぞ」

と思うことがある。

それでも猫だから、こちらも妙に笑ってしまう。

そんな『ヤニねこ』を眺めていたら、なぜか昔の長屋生活を思い出した。

あの頃、私はかなり貧しい暮らしをしていた。

住んでいたのは、今考えても「よくこんなところに住んでいたな」と思うような古い長屋だった。

隣には母子家庭がいた。

壁というより、薄い仕切りである。

だから隣の生活がよく聞こえる。

テレビの音。

話し声。

笑い声。

夜中まで続く騒ぎ声。

そして煙草の煙まで流れてくる。

隣の住人は、とにかく煙草をよく吸っていた。

こちらは煙草を吸っているわけでもないのに、壁の向こうから煙がやってくる。

今なら受動喫煙などという言葉で説明できるのだろうが、当時の私はそんなことを考える余裕もない。

「また煙が来たか」

そんな程度だった。

しかし夜中まで騒がれると、こちらは眠れない。

仕事があるのに、壁一枚向こうでは夜中まで人の気配がする。

しかも旦那がいないことをいいことに、毎晩のように違う男が現れては消えていく。

こちらから見れば、まるで日替わり亭主である。

もちろん、本当の事情など私には分からない。

ただ、薄い壁の向こうから生活の断片だけが勝手に入ってくる。

長屋というのは、そういう場所だった。

他人の生活と自分の生活との境界線が、あまりにも薄い。

そこで『ヤニねこ』を観ていると、ふと妙なことに気づいた。

私はこのアパートの大家のような目線で、主人公を見ているのである。

「また煙草を吸っている」

「また部屋を汚している」

「こんな生活をしていて大丈夫なのか」

そんなことを考えながら眺めている。

しかし考えてみれば、昔の私も似たようなことをしていた。

大家でもないのに、隣の住人の生活を気にしていた。

煙草の煙が流れてくれば気になる。

夜中まで騒がれれば気になる。

誰かが来れば気になる。

誰かが帰れば気になる。

こちらは自分の生活をしているだけなのに、壁一枚向こうの生活まで勝手に意識させられる。

「俺は大家じゃないんだけどな……」

そんな気分である。

『ヤニねこ』では、だらしない生活が猫の姿を借りることで、どこか笑えるものになっている。

しかし現実の長屋生活は、そう簡単には笑えない。

煙草の煙は本当にやってくる。

騒音は本当に眠りを邪魔する。

そして、薄い壁は隣人との境界線を簡単に壊してしまう。

それでも、今になって思い返すと、あの頃の生活まで含めて妙に笑えてしまう。

『ヤニねこ』を観ていただけなのに、猫から煙草へ、煙草から長屋へ、長屋から隣人へ、そして最後には大家のような視線まで辿り着いてしまった。

私のテレビの流し見は、どうも普通の視聴では終わらない。

作品を観ているはずなのに、いつの間にか自分の過去の部屋まで再生されている。

そして、その部屋には今日も壁一枚向こうから煙草の煙が流れてくる。

……よくまあ、あんなところで暮らしていたものだ。

今ならそう思って、酒でも飲みながら笑える。

当時は、とても笑えなかったけれど。


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