長崎くんちの舞台裏——祭りを支える人々と、二度と作れないもの

その他の雑記

さとのか4Kにて、『長崎くんち 奉納踊生中継』を流し見しながら作業していた。

長崎くんちといえば、豪華な山車や異国情緒を感じさせる演し物、そして大勢の人々が一体となって繰り広げる奉納踊が見どころである。

我が町では神輿を中心とした祭りが多いが、長崎では山車をはじめ、さまざまな文化が混ざり合った独特の景色が見られる。港町として異文化と交流してきた歴史が、祭りの姿にも残されているのだろう。

なかでも気になったのが、「上町コッコデショ」である。

神輿とも櫓とも言いがたい独特の構造物を、大勢の担ぎ手が息を合わせて動かす。方向転換の鮮やかさもさることながら、繰り返される回転と掛け声には、見ている側まで引き込まれるものがある。

上部に積み重ねられた巨大な座布団状の飾りも目を引く。担ぎ手たちが身体を反り返らせながら動かす姿を見ていると、こちらの背中までつりそうになる。

祭りとは、ずいぶんと身体を張った娯楽である。

華やかな本番、その裏側

生中継のあとには、長崎くんちの山車や傘鉾など、その舞台裏を紹介する番組が放送されていた。

ここで見えてきたのは、本番の華やかさとは対照的な、地道な仕事の積み重ねである。

観客の目を引くのは、豪華な装飾や迫力のある動きだ。しかし、それらが祭りの日に突然現れるわけではない。

道具を整え、部品を修繕し、必要な材料を確保し、演者が技を磨く。誰かが手を動かし続けなければ、祭りの景色は維持できないのである。

なかでも驚いたのが、重量120kgを超えるという傘鉾だ。

山車に比べれば小さく見えるものの、それを一人で支え、回転させるという。大勢で力を合わせて動かす山車とは違い、一人の技量がそのまま動きに表れる。

ただ持ち上げればよいという話ではない。重さを受け止め、重心を扱い、身体全体を使って動かす。あの華麗な回転の裏には、並大抵ではない技術と練習があるのだろう。

観客にとっては一瞬の見せ場でも、演じる側にとっては長年の積み重ねの成果なのである。

若い稲から作られるしめ縄

傘鉾を飾るしめ縄にも、独特の決まりがある。

番組で紹介されていたのは、まだ若い稲を刈り取り、天日干しにして作る青い稲のしめ縄だった。祭りに奉納するものだからこそ、材料にも条件があるという。

現代なら、必要なものを注文し、規格に合った製品を調達するという考え方が一般的かもしれない。しかし、伝統行事で使うものは、単に見た目が同じならよいというわけではない。

材料を確保する時期があり、乾燥させる手間があり、決められた姿に仕上げる技術がある。

祭りの日程は決まっていても、その準備は祭りの当日から始まるわけではない。目立たない仕事は、ずっと前から進められているのだ。

華やかな傘鉾の周囲に巻かれた一本のしめ縄にも、季節と人の手が関わっている。

こうした事情を知ると、飾りのひとつを眺めるにも、少しばかり目線が変わってくる。

祭りを盛り上げる音

祭りに欠かせないものとして、笛や太鼓による「シャギリ」と呼ばれるお囃子もある。

祭りの映像では、どうしても山車や傘鉾の動きに目が向きがちだ。しかし、音がなければ、あの高揚感はずいぶん違ったものになるだろう。

笛の音が響き、太鼓が鳴り、演者の掛け声が重なる。

それは単なる背景音ではない。祭りの雰囲気を形づくり、人々の気持ちを高め、町全体をひとつの舞台へと変えていく大切な要素である。

映画やテレビ番組にも、映像を引き立てる音楽がある。だが、祭りのお囃子は、その場にいる人々自身が奏で、地域のなかで受け継いできた音だ。

演奏する人がいて、技術を教える人がいて、次の世代が覚えていく。

山車や傘鉾だけでなく、音にもまた、守り続けなければならない伝統がある。

先代が作ったものは、二度と同じようには作れない

今回の番組で、特に印象に残ったのは、老朽化した山車の部品を新たに製作し、交換していく作業だった。

長年使い続ければ、部品は傷み、修繕や交換が必要になる。祭りを続けるためには、避けて通れない仕事である。

しかし、先代が作ったものを、そっくりそのまま再現できるとは限らない。

当時の材料、職人の技術、道具の違い、製作された時代の事情。さまざまな条件が重なり、ひとつの部品が形づくられている。

寸法を測り、同じ形を作ることはできるかもしれない。それでも、当時と同じ材料を手に入れ、同じ職人の手仕事まで再現することは難しいだろう。

古い部品を取り外し、新しい部品に交換すれば、物理的には山車を使い続けられる。しかし、そこには少しずつ変化していく現実もある。

古いものを残すことと、古いものを作った技術を残すことは、同じではないのだ。

これは祭りだけの話ではない。

古い建築物や伝統工芸、町工場の機械、昭和の生活道具にも通じる。長く使われてきたものには、製品としての機能だけでなく、それを作った人々の知恵や技術、時代の記憶が染み込んでいる。

壊れたら新しくすればよい。

合理的に考えれば、それで済むこともある。しかし、同じものを作れなくなったとき、私たちは初めて、失われつつある技術の存在に気づくのかもしれない。

祭りを残すとは、何を残すことなのか

長崎くんちの生中継を観ているだけなら、華やかな祭りの光景を楽しんで終わっていたかもしれない。

ところが、その裏側を紹介する番組を観ると、見えてくるものが変わる。

120kgを超える傘鉾を回転させる技量。若い稲から作るしめ縄。笛や太鼓のシャギリ。そして、老朽化した山車の部品を作り直す人々。

祭りは、古い道具を倉庫に保管しておくだけでは残らない。

材料を用意する人がいる。道具を直す人がいる。演じる技術を磨く人がいる。そして、それらを次の世代へ伝える人がいる。

伝統とは、過去の姿をそのまま凍結することではなく、変化や修繕を受け入れながら、受け継ぐべきものを未来へ渡していく営みなのだろう。

もっとも、祭りの当日に観客が目にするのは、その長い過程のほんの一部分である。

掛け声が響き、山車が動き、傘鉾が回転する。

その一瞬のために、どれほどの時間と労力が費やされたのか。舞台裏を知らなければ、気づかずに通り過ぎてしまうことも多い。

自宅のテレビから見えてくるもの

今回も、さとのか4Kを流し見していたことがきっかけだった。

現地まで出かけなくても、全国各地の祭りや文化を自宅で眺めることができる。しかも、生中継のあとに舞台裏まで紹介してくれるのだから、ありがたい時代である。

画面の向こうでは、祭りを絶やさないために人々が汗を流している。

こちらは猫たちと同じ部屋でテレビを眺めながら、祭りの華やかさだけでなく、その背後にある人間の営みについて考えている。

祭りを観に行ったつもりが、いつの間にか伝統とは何か、古いものを残すとはどういうことなのかという話になってしまった。

相変わらず、話の着地点は予定どおりにはいかない。

しかし、こうした寄り道こそ、知らなかったものに出会い、普段なら考えもしなかったことを考える楽しみでもある。

長崎くんちの華やかな山車や傘鉾。その姿を支えているのは、観客からは見えにくい場所で、黙々と手を動かしている人々なのだ。

祭りの本番が終わっても、祭りを守る仕事は終わらない。

そして、先代が作ったものを二度と同じようには作れないという現実は、伝統を未来へ渡すことの難しさを、静かに物語っている。


次の記事

コメント

タイトルとURLをコピーしました