「視線の境界線──『Pearl』『X』『MaXXXine』から考える人間」5 宗教と映画産業は本当に正反対なのか

映画から考える社会

『X』三部作を観ていると、宗教と映画産業が何度も対立する。

一方には、性や欲望を否定しようとする宗教的な価値観がある。

もう一方には、人間の欲望や身体を映像にして商品にする映画産業がある。

一見すると、この二つは正反対に見える。

片方は「欲望を抑えろ」と言い、もう片方は「欲望を見せろ」と言う。

しかし、3作品を続けて観ていると、私はむしろ別の疑問を持つようになった。

本当に、この二つは正反対なのだろうか。

「するな」と「見せろ」

宗教的な価値観では、人間の欲望に一定の制限を設けることがある。

何をしてよいのか。

何をしてはいけないのか。

どのように生きるべきなのか。

そうした規範によって、人間の行動を方向づける。

一方、映画産業は、人間の欲望を物語や映像に変える。

恋愛。

性。

暴力。

成功。

金銭。

権力。

人間が興味を持つものを作品にして、観客に見せる。

だから、

宗教は欲望を抑えるもの。

映画は欲望を刺激するもの。

という単純な対比が成立する。

しかし、ここで一度立ち止まってみたい。

両者は方向こそ違うものの、どちらも人間の欲望を強く意識している。

「してはいけない」と言われる対象は、それだけ人間が欲望を持ちやすい対象でもある。

そして映画は、その欲望を映像として見せる。

つまり、

抑える側も、見せる側も、人間の欲望を無視してはいない。

むしろ、どちらも欲望を意識させる存在なのだ。

『X』の農場に持ち込まれた二つの価値観

『X』では、この対立が農場という場所に持ち込まれる。

若者たちは、ポルノ映画を撮影するために農場へやって来る。

そこには、都会的な新しい価値観がある。

自分の身体を使って映画を作る。

性を映像にする。

映画によって成功する。

一方、農場には古い価値観が残っている。

土地。

家族。

信仰。

結婚。

地域社会。

そして、性に対する保守的な考え方。

つまり農場は、

古い価値観と新しい価値観がぶつかる場所

になっている。

しかし面白いのは、農場を所有する側も完全に「道徳だけ」で生きているわけではないことだ。

生活には金が必要になる。

土地を維持するにも金が必要になる。

高齢化すれば、働き続けることも難しくなる。

だから、普段なら風紀を乱すものとして拒否しそうな撮影隊を、金銭的な理由から受け入れることができてしまう。

ここにも人間の矛盾がある。

「道徳」と「生活」は、いつでも一致するわけではない。

金が入れば、価値観まで変わる

これは映画の中だけの話ではない。

人間は、自分の価値観と利益が衝突したとき、必ずしも価値観を優先できるとは限らない。

「これは好きではない」

と思っていても、

「でも、仕事だから」

「生活のためだから」

「お金になるから」

という理由で受け入れることがある。

だから『X』の農場は、単純な「善と悪」の舞台ではない。

そこには、

生活する人間

がいる。

そして生活する以上、理想だけでは生きられない。

宗教的な価値観を持っていても、金銭から完全に自由ではない。

映画産業も、芸術だけで動いているわけではない。

こちらも金が必要になる。

観客が必要になる。

売れる作品を作らなければならない。

結局、両者とも人間社会の中に存在している以上、経済や欲望から完全に逃れることはできない。

「欲望を否定する側」にも欲望がある

『MaXXXine』では、この問題がさらに極端になる。

ハリウッドやアダルト産業を否定する側が登場する。

彼らは、自分たちは堕落した映画産業とは違う存在だと考えている。

しかし、彼らもまた映像を使う。

人間の身体を撮影する。

そして、殺人そのものを映像として記録する。

ここに大きな皮肉がある。

ポルノ映画では、人間の身体を映像化する。

彼らは殺人を映像化する。

目的はまったく違う。

しかし、どちらにも、

「他人の身体を自分たちの目的のために映像にする」

という構造がある。

一方は「娯楽」。

もう一方は「信仰」や「使命」。

呼び方は違っても、カメラの前に置かれた人間からすれば、自分の身体や死が誰かの目的のために使われている。

ここが非常に不気味なのだ。

「正しい目的」なら、人間を利用していいのか

ここから、もう一段深い疑問が生まれる。

もし目的が正しければ、他人を利用してもいいのだろうか。

芸術ならいいのか。

報道ならいいのか。

記録ならいいのか。

宗教ならいいのか。

社会のためならいいのか。

この問題は、映画の世界だけに存在するものではない。

ニュース映像でも、事件の被害者が映される。

ドキュメンタリーでは、誰かの人生が作品になる。

SNSでは、他人の日常が勝手に撮影されることもある。

人間を「記録する」という行為には、必ず見る側と見られる側の関係が生まれる。

だから重要なのは、

「何を撮ったのか」だけではなく、「誰のために撮ったのか」

なのかもしれない。

「記録」と「消費」はどこで分かれるのか

映像には、記録する力がある。

一度撮影すれば、その瞬間を後世まで残すことができる。

これは映画や写真の大きな魅力だ。

しかし、記録されたものは誰かに見られる。

そして、見られるものは消費される可能性もある。

事件の映像を見る。

誰かの人生を見る。

誰かの身体を見る。

誰かの死を見る。

その瞬間、記録は娯楽にもなり得る。

だから、

「記録だから正しい」

とは簡単には言えない。

『MaXXXine』に登場する殺人映像は、その問題を極端な形で見せている。

殺人を記録する。

それを誰かが見る。

そして、その映像に意味を与える。

そこには、映画というメディアが持つ力と危険性が同時に存在している。

宗教も映画も「意味」を与える

もう一つ共通しているのは、宗教も映画も、人間の出来事に「意味」を与えようとすることだ。

宗教は、

「これは善である」

「これは悪である」

「こう生きるべきだ」

と意味を与える。

映画もまた、

「この人物はこういう人間だ」

「この出来事にはこういう意味がある」

と物語を作る。

現実そのものを、そのまま渡しているわけではない。

どこを切り取り、どう並べ、どう見せるのか。

そこには必ず誰かの視線が入る。

だから映画も宗教も、単純に現実を映すものではない。

人間に現実の意味を与える装置

として考えることもできる。

もちろん、両者の目的や性質はまったく違う。

それでも、「人間は何を信じ、どう見るべきなのか」という問いを扱う点では、奇妙な共通部分がある。

「正反対」に見えるものほど似ている

『X』三部作の面白さは、このような矛盾を単純に解決しないところにある。

宗教が悪い。

映画産業が悪い。

ポルノが悪い。

ハリウッドが悪い。

そんな単純な結論にはならない。

むしろ、

「人間は、どんな思想や産業に属していても、欲望から完全には逃れられない」

というところへ話が戻ってくる。

欲望を否定する人間にも欲望がある。

欲望を商品にする人間にも信念がある。

正しいことをしているつもりの人間にも、他者を利用してしまう瞬間がある。

そして、自分たちだけは相手とは違うと思った瞬間に、その矛盾に気づきにくくなる。

だから『MaXXXine』の父親が不気味なのかもしれない

父親側の存在が印象に残るのは、単なる悪役だからではない。

むしろ、

「自分たちは正しい側にいる」

という確信を持っていることが怖い。

ハリウッドやアダルト産業を否定する。

しかし、自分たちも映像を使う。

他人の身体を記録する。

殺人を記録する。

そして、それを自分たちの思想のために利用する。

つまり、

「相手とは違う」と言いながら、相手と同じ道具を使っている。

ここに、人間社会の皮肉がある。

これは宗教に限った話でもない。

会社。

政治。

学校。

地域社会。

あらゆる組織で起こり得る。

自分たちには正当な理由がある。

相手にはない。

そう考え始めると、同じ行為でも自分たちだけは正しいと思えてしまう。

『X』三部作が問いかけているもの

だから私は、この三部作を単純な「宗教対ハリウッド」の物語としては見ていない。

むしろ描かれているのは、

「人間は、自分の欲望や行為をどのような言葉で正当化するのか」

という問題なのだと思う。

映画を撮る。

身体を映す。

殺人を記録する。

信仰を守る。

夢を追う。

どれも、それだけを見れば意味が違う。

しかし、その行為をする人間が、

「自分には正当な理由がある」

と思っている点では共通している。

だからこそ、怖い。

悪人だけが危険なのではない。

「自分は正しい」と確信している人間もまた、他者を傷つける可能性がある。

『Pearl』『X』『MaXXXine』を通して見えてくる「視線」は、単に見る・見られるという関係だけではない。

そこには、

「私は正しいものを見ている」

という、人間自身の思い込みまで含まれている。

そして、その視線が他者を一方的に分類し始めたとき、

「信仰」

「芸術」

「記録」

「娯楽」

という言葉さえ、境界線を隠すための言葉になってしまうのかもしれない。


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ここまで見てくると、『X』三部作に登場する農場もハリウッドも、単なる舞台ではなく、人間の欲望や価値観が交差する場所として見えてきます。では、なぜ若者たちは農場へ向かい、なぜ老いた農場主はそこに取り残されていたのでしょうか。次は視線を「場所」へ移し、『X』に描かれた農場とハリウッド──古い共同体と新しい欲望がぶつかる境界線について考えてみたいと思います。

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