『Pearl』では、「見られたい」という欲望が描かれていた。
誰かに自分の存在を認めてもらいたい。
特別な人間だと思われたい。
今いる場所から抜け出したい。
『X』では、その欲望が映画撮影という形で具体化する。
人を撮影する側と、撮影される側。
見る人と、見られる人。
そして『MaXXXine』では、物語の舞台がさらに大きくなる。
1985年のハリウッド。
マキシーンは、ポルノ映画の世界から抜け出し、メジャーな映画スターになることを目指している。
ここまで来ると、彼女の目的は単純な「有名になりたい」ではない。
「私は、この世界で生き残る」
という強い意志に変わっている。
しかし、見られることによって成功しようとする人間には、その視線から逃げられなくなるという代償もある。
1985年のハリウッドという舞台
『MaXXXine』を観ていて面白いのは、1980年代のハリウッドそのものが一つの登場人物のように描かれていることだ。
ネオン。
映画館。
ビデオ。
派手なファッション。
ポルノ産業。
映画スター。
そして、街に漂う犯罪の気配。
『X』の農場とは正反対の世界である。
農場が閉じた共同体なら、ハリウッドは巨大な欲望が集まる場所だ。
誰もが成功したい。
誰もが見られたい。
誰もが自分を売り込みたい。
そのために、自分自身を演出する。
マキシーンは、まさにその世界へ入ろうとしている。
しかし、彼女には過去がある。
『X』で起きた事件。
ポルノ映画の撮影。
そして、自分が生き残ったという事実。
ハリウッドで新しい人生を始めようとしても、過去は簡単には消えてくれない。
「見られること」を武器にするマキシーン
『Pearl』のPearlは、「見つけてもらいたい」と願っていた。
しかし、マキシーンは違う。
彼女は自分からカメラの前へ進んでいく。
自分を見せる。
演じる。
オーディションを受ける。
そして、スターという場所を手に入れようとする。
つまり彼女は、
「見られること」を自分の武器に変えようとしている。
これは、現代のSNSにも少し似ている。
自分の姿を発信する。
自分の人生を演出する。
自分の強みを見せる。
そして、他人から評価されることで、自分の価値を証明する。
もちろん、1985年と現代ではメディア環境がまったく違う。
しかし、
「見られることによって、自分の存在価値を確認する」
という欲望そのものは、あまり変わっていない。
ハリウッドは夢を叶える場所なのか
マキシーンにとって、ハリウッドは夢の場所だ。
しかし同時に、夢を商品にする場所でもある。
俳優は身体を見せる。
演技を見せる。
人生そのものをキャラクターに変える。
映画会社は、それを作品として売る。
観客はそれを見る。
つまり、
「見られたい」という個人の欲望と、「人間を商品として見る」産業の論理が一致する。
だからこそ、マキシーンはハリウッドに向いている。
しかし、その相性の良さこそが危険でもある。
自分を売り込むことと、自分自身を消費されることの境界が曖昧になるからだ。
父親という存在
ここで興味深くなるのが、マキシーンの父親である。
父親側は、ハリウッドやアダルト産業を否定するような思想を持っている。
一見すると、
「堕落した映画産業」
に対抗する存在に見える。
しかし、実際に彼らが行っていることを見ると、奇妙な矛盾が浮かび上がる。
彼らは殺人を映像化し、記録している。
人間の身体を撮影する。
恐怖や死を映像として残す。
つまり、否定しているはずの映画産業やアダルト産業と同じように、
「人間を映像の対象にしている」
のである。
もちろん、目的は違う。
片方は娯楽。
片方は宗教的・思想的な目的。
しかし、そこで使われている手段は似ている。
他人の身体や人生を、自分たちの目的のために映像化する。
ここに、この映画の皮肉がある。
「ポルノ」と「記録」の境界線
この問題は、単純に「どちらが悪い」という話ではない。
むしろ、
何を映像化すれば正当で、何を映像化すれば不道徳なのか
という問題になる。
ポルノ映画は、身体を商品として映像化する。
映画は、人間の欲望を物語として映像化する。
ニュースは、事件を記録する。
ドキュメンタリーは、現実を記録する。
そして、父親たちは殺人を「記録」として映像に残す。
名前を変えれば、行為の意味まで変わって見える。
「娯楽」
「芸術」
「報道」
「記録」
「使命」
しかし、映像の中にいる人間にとっては、
自分の身体や人生が、他人の目的のために使われている
という点では共通している。
ここに『MaXXXine』の嫌なところがある。
宗教は欲望を否定しながら、欲望を意識させる
宗教的な価値観では、性や欲望を否定することがある。
しかし、「してはいけない」と強く語れば語るほど、人間はその対象を意識してしまう。
禁止することによって、逆に存在感を与えてしまう。
『X』から『MaXXXine』まで観ていると、
宗教とポルノは正反対に見えながら、どちらも人間の性や身体を強く意識している
ように見える。
一方は、
「欲望を抑えろ」
と言う。
もう一方は、
「欲望を見せろ」
と言う。
方向は逆でも、どちらも人間の欲望を中心にしている。
だからこそ、この作品では両者が奇妙な形でつながってしまう。
殺人を「映像」にするという異様さ
父親側の組織が行っていることを考えると、さらに嫌な問題が見えてくる。
殺人を犯す。
そして、それを映像として残す。
これは単に殺人をすることとは違う。
「誰かに見せるための殺人」になるからだ。
そこには、
「見る人間がいる」
という前提が存在する。
殺人そのものが目的なのではなく、映像として残すことによって、別の価値を生み出そうとしている。
ここまで来ると、『X』で描かれたポルノ映画の撮影と奇妙な対照になる。
ポルノ映画は、人間の欲望を映像化する。
父親たちは、人間の死を映像化する。
どちらも、人間の身体をカメラの前に置く。
そして観客は、それを見る。
だから、
「何を撮影するのか」
だけではなく、
「なぜ撮影するのか」
まで考えなければならなくなる。
カメラは人間を救うのか、それとも消費するのか
ここで、以前考えた葛飾応為の記事ともつながってくる。
絵画は、人間の姿を残す。
写真も残す。
映画も残す。
テレビも残す。
現代では、SNSによって私たち自身が日常を記録している。
人間は昔から、自分や他人の姿を「残したい」と考えてきた。
しかし、記録することには別の側面もある。
記録された人間は、本人の意思とは関係なく、後から誰かに見られる可能性がある。
つまり、
記録することは、残すことでもあり、見られる状態にすることでもある。
『MaXXXine』では、この問題がかなり極端な形で描かれる。
映画は人間を残す。
しかし、その人間を商品にもする。
マキシーンは何を手に入れたのか
マキシーンは、Pearlとは違う。
Pearlは、夢を叶えられなかった。
マキシーンは、自分の手で夢へ近づこうとする。
彼女は自分の過去を抱えながら、それでも前へ進む。
だから、単純に彼女を「被害者」と見ることもできない。
彼女自身が、自分の人生を選び取ろうとしているからだ。
しかし、そのために彼女は自分自身を演出する。
自分を強く見せる。
弱さを隠す。
過去を隠す。
そして、他人から見られる自分を作り上げていく。
それは『Pearl』のラストにあった「笑顔」ともつながる。
演じることで、自分を守る。
そして、演じることで、自分の人生を手に入れる。
その二つは、必ずしも矛盾しない。
「自分らしく生きる」ということの皮肉
現代では、
「自分らしく生きよう」
という言葉をよく聞く。
しかし、自分らしく生きるために、自分を演出しなければならないこともある。
仕事では、自分を売り込む。
SNSでは、自分を発信する。
面接では、自分を説明する。
恋愛では、自分をよく見せる。
社会では、役割を演じる。
つまり、「自分らしさ」さえも、他人から見られることを前提に作られている部分がある。
マキシーンも同じだ。
彼女は自分の人生を自分で選ぼうとしている。
しかし、その人生を実現するためには、他人から見られる「マキシーン」を作らなければならない。
自由になるために、別の人格を演じる。
これは皮肉な話である。
『MaXXXine』が怖いのは、殺人だけではない
この作品をホラー映画として観れば、もちろん殺人や追跡の恐怖がある。
しかし、私が気になったのはそこだけではなかった。
むしろ怖いのは、
人間が自分自身を「見せるための存在」に変えてしまうこと
だった。
Pearlは「見られたい」と願った。
『X』では、その欲望を撮影する側と撮影される側が同じ農場に集まった。
そして『MaXXXine』では、マキシーンが「見られること」を利用して、自分の人生を作り直そうとする。
その一方で、父親側は宗教を掲げながら、人間の死を映像化する。
一方は夢。
一方は信仰。
一方は芸術。
一方は記録。
しかし、どちらもカメラを通して人間を対象にする。
そこに、この三部作の大きな皮肉がある。
『Pearl』から『MaXXXine』へ
三部作を並べてみると、三人の「見る/見られる」が見えてくる。
『Pearl』では、
「私を見てほしい」
という欲望。
『X』では、
「人間を撮影する」
という欲望。
『MaXXXine』では、
「見られることで、自分の人生を手に入れる」
という欲望。
そして、そのすべてをカメラがつないでいる。
カメラは人間を記録する。
しかし、同時に人間を商品にする。
人間の欲望を映し出す。
そして、その欲望そのものを増幅させる。
だから『MaXXXine』は、単なる『X』の後日談ではない。
『Pearl』から始まった、
「人間はなぜ見られたがるのか」
という問いを、ハリウッドという巨大な場所まで持っていった作品なのだと思う。
見られることで、人は自由になれるのか
マキシーンは、過去から逃げるためにハリウッドへ向かった。
そして、見られることで成功しようとした。
しかし、「見られること」は自由とは限らない。
誰かに評価される。
誰かに消費される。
誰かに意味を与えられる。
そして、自分がどう見られているのかを気にする。
それでも人間は、誰かに見てほしいと思う。
認めてほしい。
選ばれたい。
記憶されたい。
その欲望は、Pearlの時代から1980年代のハリウッドまで続いている。
そして現在のSNSにも続いている。
時代が変わっても、人間の「見られたい」という欲望は、それほど変わっていないのかもしれない。
『MaXXXine』を観終わって残ったのは、そんな疑問だった。
人間は、誰かに見てもらうために、自分自身をどこまで演じられるのだろうか。
そしてもう一つ。
自分を見せることと、自分を失うことの境界線は、いったいどこにあるのだろうか。
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『MaXXXine』では、見られることがスターになるための条件である一方、それは同時に人間を評価し、消費する視線にもなっていました。では、『Pearl』から『X』、そして『MaXXXine』へと続く三作品を並べたとき、そこにはどんな「見る/見られる」の関係が浮かび上がるのでしょうか。ここからは三部作を一本のテーマとして捉え直してみます。



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