Amazon Prime Videoで、短編映画『ゴミ屑と花』を観ました。
上映時間は約30分。
夜勤のゴミ収集員として働く研修生と指導員が、担当区域の収集ルートを巡りながら仕事を覚えていく物語です。
道中では、ゴミの出し方をめぐる住民とのトラブルがあれば、「いつもありがとう」と温かい差し入れを渡してくれる人もいる。派手な出来事はありませんが、夜の街で働く人たちの日常が、静かな視線で描かれていました。
私がこの作品を観ようと思ったのは、夜勤という共通点があったからです。
人が眠りにつく頃に仕事が始まり、朝を迎える頃には何事もなかったように街が動き始める。
そんな時間帯に働く者だけが知る空気があります。
映画の中では、ゴミ収集員が心ない言葉を浴びせられたり、偏見を向けられたりする場面もありました。
ゴミは毎日のように出されます。
けれど、それを回収する人の姿に目を向ける機会は決して多くありません。
それでも彼らは立ち止まることなく、次の収集場所へ向かいます。
その姿に、私はどこか親近感を覚えました。
映画を観ているうちに、一つの光景がよみがえりました。
以前、私はゴミ収集施設の近くで現場仕事をしていたことがあります。
仕事を終えた収集員の方々は、そのまま帰宅するのではなく、施設内のシャワールームへ向かいます。
生ゴミなどを扱う仕事だからこそ、身体や作業着には臭いが残ります。
しばらくすると、作業着姿だった人たちが、Tシャツ姿で出てきます。
仕事の臭いだけでなく、一日の疲れまで洗い流したような、穏やかな表情でした。
その姿が、なぜか今でも記憶に残っています。
思えば、私の職場にも小さなシャワールームがあります。
そこは社員のためというより、県外から荷物を運んできた長距離トラックの運転手が利用する場所です。
荷物を降ろえたあと、汗を流し、そのまま車内で仮眠を取る。
翌日の配送に備えるための、ごく当たり前の時間です。
仕事は違っても、夜に働く人たちには共通する時間があります。
一日の終わりにシャワーを浴び、仕事を身体から洗い流して、ようやく一人の人間へ戻る時間です。
映画を観終えたあと、私はふと母のことを思い出しました。
子どもの頃、まだ汲み取り式の便所が珍しくなかった時代です。
糞尿を回収する業者さんやゴミ収集の方が来ると、母はいつも「ご苦労さまです」と、ごく自然に声を掛けていました。
幼かった私は、その光景を特別なものだとは思っていませんでした。
けれど今振り返ると、母は仕事の内容ではなく、その仕事をしている「人」を見ていたのだと思います。
人が敬遠しがちな仕事には、それだけ人知れぬ苦労があります。
臭いと向き合うこと。
汚れと向き合うこと。
偏見や心ない言葉を受けること。
そして、人が眠る時間に働き続けること。
そうした誰かの苦労があるからこそ、私たちは翌朝、きれいな街で何事もなかったように一日を始めることができます。
私はこれまで、裁判員制度や「塀の向こう側日誌」、農業や町の営みなど、普段あまり語られない世界を書いてきました。
振り返れば、私がそうした題材に心を惹かれるのも、幼い頃に母が見せてくれた何気ない姿が、どこか心に残っているからなのかもしれません。
『ゴミ屑と花』は、社会を支える「見えない仕事」を静かに映し出した作品でした。
夜が明ければ、昨夜のゴミはなくなっています。
道路には荷物が積み上がることもありません。
その当たり前の朝は、誰かが夜の静けさの中で、自分の仕事を黙々とやり遂げた証です。
私たちは、その姿を見る機会は少なくても、その仕事に支えられながら今日という一日を生きているのだと思います。
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人を知るということは、肩書きや仕事を見ることではなく、その人がどのように生きているのかを知ることなのかもしれません。
このブログでは、そんな「人の営み」をテーマに、さまざまな出来事や記憶を綴っています。
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