松山の椿まつりには、九尾の狐の尾が伝わっているという話がある。
千年を生きた狐。
人を惑わせ、国を傾けるほどの力を持った霊獣。
その尾の一部が今も社に残されていると聞けば、つい見てみたくなる。
昔の人は、こうした伝承に神秘を見ていたのだろう。
だが私は椿まつりの境内ではなく、自宅のこたつに座っている。
そして周囲を見渡せば、尾が揺れている。
一つ。
二つ。
三つ。
気付けば九つ。
我が家の猫たちである。
もちろん神話の九尾とは違う。
千年も生きていない。
人を化かすこともない。
ただ腹が減れば鳴き、眠くなれば丸くなる。
それだけの生き物だ。
しかし不思議なもので、長く一緒に暮らしていると、尾には感情が現れる。
機嫌が良ければゆっくり揺れる。
警戒すれば膨らむ。
安心していれば静かに体へ沿う。
言葉を持たない代わりに、尾が語るのである。
伝説の九尾は箱の中に残されている。
一方でこちらの九尾は、日々埃をまといながら生きている。
どちらが神秘的かと問われれば、人によって答えは違うだろう。
だが私にとっては、季節の変化を教えてくれるのは神話の狐ではなく、こたつの周囲で眠る猫たちである。
もしかすると神秘とは、遠い昔話の中だけに存在するものではないのかもしれない。
日常の中で見慣れてしまったものにも、小さな不思議は息づいている。
九尾は社の中だけではなく、今日も我が家で静かに揺れているのである。



コメント