朝方、仕事を終えて家へ戻ると、居間のちゃぶ台に小さな違和感を覚えました。
見慣れたはずの景色なのに、どこか高さが違うのです。
気のせいかと思いながら近づいてみると、その理由はすぐに分かりました。
ちゃぶ台の四本の脚の下に、それぞれ一枚ずつレンガが敷かれていたのです。
犯人は、考えるまでもありません。
「チャボを飼いたい」と言い出した同居人です。
どうやら、こたつで温める予定の有精卵を猫たちから守るため、少しでも高い場所へ移したかったようです。
発想としては理解できます。
しかし、そのレンガが少しだけ外側へ張り出していることに、私は別の意味で危機感を覚えました。
その場所は、私が毎日歩く生活動線のど真ん中だったのです。
人は家具の位置を目で確認しながら歩いているようで、実際には身体が覚えた感覚で移動しています。
だから、たった数センチの段差や出っ張りでも、身体は簡単に裏切られます。
とりわけ夜勤明けの朝方などは、その数センチが驚くほど正確に足の小指を狙ってきます。
まだヒヨコは一羽も孵っていません。
それなのに、このチャボ計画による最初の犠牲者は、どうやら私になりそうです。
考えてみれば、人の動線というものは実に繊細です。
部屋の模様替えをしただけで家具に肩をぶつけたり、スーパーの陳列棚が変わっただけで目的の商品を探して右往左往したりするのも、身体が景色そのものを記憶しているからなのでしょう。
暮らしは、思っている以上に「いつもどおり」の積み重ねで成り立っています。
その「いつもどおり」が、たった一枚のレンガで崩れてしまうのです。
もっとも、そのレンガにも理由があります。
相手は猫です。
私は幼い頃、家で飼っていたオス猫が、裏山でハトよりひと回り大きな野鳥を仕留めて帰ってくる姿を何度も見てきました。
今では驚かれるかもしれませんが、当時の大人たちは、その命を無駄にはしませんでした。
丁寧に下処理を施し、食卓へ並べ、猫もまたその一部を分けてもらっていました。
今の感覚では受け入れにくい話かもしれません。
けれど、それは命を粗末にしないという、当時の暮らしの知恵でもありました。
猫は狩りをする。
人はその命をいただく。
そして猫もまた、その恵みを受ける。
人も動物も、自然の営みの中で生きていた時代の、ごく当たり前の風景だったのです。
だから私は知っています。
猫は相手がスズメでもハトでも、色鮮やかな小鳥でも、ためらうことはありません。
動く小さな命は、本能のまま狩りの対象になります。
だからこそ、同居人が有精卵を守ろうとする気持ちも理解できます。
もっとも、その防衛策によって最初に危険へさらされるのが、毎朝そこを歩く私だったというのは、何ともこの家らしい話です。
チャボは、まだ殻の中です。
それでも、わが家の日常は少しずつ形を変え始めています。
たった一枚のレンガから始まったこの小さな変化が、これからどんな騒動へ発展していくのか。
そのときの私は、まだ知る由もありませんでした。
レンガ一枚で変わったのは、私の動線だけではありませんでした。
ちゃぶ台の上では静かに温められる有精卵。
その周囲では、反対していたはずの親父まで卵を裏返し始め、気が付けば家族全員が「チャボ計画」の関係者になっていました。
しかも同居人は、まだ孵ってもいないヒヨコたちに名前まで考え始めています。
ダージリン。
アッサム。
その優雅な名前とは裏腹に、私の頭の中では、毎朝の住宅街に「コケコッコー!」が響き渡る未来しか浮かびません。
さて、この壮大な物語は、いったいどこへ向かうのでしょうか。



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