『ダーティハリー4』を流し見しながら、内部リンクの整理をしていた。
何度も見ている映画なのに、ふと妙なことを思った。
ダーティハリーは、どこか座頭市に似ている。
拳銃と刀。
サンフランシスコと江戸。
比べるにはあまりにも違う世界だ。
それでも私には、どこか同じ匂いをまとった人物に見えるのである。
考えてみれば、彼らは正義の象徴ではない。
ハリー・キャラハンは規則を守る優等生ではなく、座頭市も模範的な人物とは言い難い。
しかし、理不尽な出来事を前にすると放っておけない。
彼らは世の中を変えたい理想家ではない。
ただ、自分の目の前で起きている不条理に我慢がならないのである。
その姿はどこか不器用で、人間臭い。
そして彼らにはもう一つ共通点がある。
街の裏側を知っていることだ。
危険な街では、法律や規則だけでは見えてこないものがある。
誰が本当の力を持っているのか。
誰が嘘をついているのか。
どこに踏み込めば厄介事になるのか。
そうした空気を知っている人間ほど生き残る。
『LAコンフィデンシャル』の刑事たちもそうだった。
彼らは教科書通りの捜査だけではなく、人間の欲望や街の構造を知っていたからこそ真実へ近づくことができた。
座頭市もまた、宿場町に漂うわずかな違和感から異変を察知する。
ダーティハリーも犯罪者の思考や街の危険な場所を熟知している。
だから彼らは、事件の中心へ辿り着くことができるのだろう。
ふと考える。
私が町中華を好きなのも、同じ理由なのかもしれない。
夜の町中華には様々な人がやって来る。
仕事帰りの人。
酒を飲んだ帰りの人。
夜勤へ向かう人。
夜勤を終えた人。
一人で静かに食事をする人。
もちろん、その人たちをまじまじと観察するようなことはしない。
しかし不思議と伝わってくるものがある。
それぞれが違う一日を生きてきたことが。
誰も語らないのに、その人の人生の断片のようなものが店の空気に漂っている。
町中華とは、料理だけを食べる場所ではないのだろう。
様々な人生が一時的に交差する場所でもある。
昔から「水清ければ魚棲まず」という言葉がある。
あまりにも澄み切った水には魚が住めない。
人間社会も同じなのかもしれない。
理想だけでは生きていけない。
正論だけでも腹は満たせない。
絵に描いた餅では人は生きられないのである。
だから街には、少しの余白が必要なのだろう。
人間の弱さや矛盾を受け止めるための余白である。
ダーティハリーも座頭市も、その余白の中を生きている。
彼らは決して清廉潔白な英雄ではない。
しかし人間の弱さを知っている。
街の裏側を知っている。
だからこそ、人の痛みにも気付くことができる。
ダーティハリーや座頭市のようなアンチヒーローに惹かれるのは、彼らが特別に強いからではないのかもしれない。
人間の弱さも街の裏側も知りながら、それでも自分なりの筋を通して生きているからだろう。
そんなことを考えながら夜の町中華を見渡してみる。
作業着の人もいる。
酒を飲む人もいる。
疲れた顔の人もいる。
誰も自分をヒーローだとは思っていないだろう。
しかし街は、そういう人たちによって支えられている。
考えてみれば、それは十分に英雄的なことではないだろうか。
本物のヒーローはスクリーンの中だけにいるわけではない。
案外、夜の町中華の片隅で静かにラーメンをすすっているのかもしれない。
映画のアンチヒーローたちは、いつも街の片隅にいました。
では現実の街には、どのような人たちがいるのでしょうか。
賑わいの中心ではなく、その少し外側で今日も生きている人々について考えてみました。


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