前回の記事では、人が見た目で判断してしまう理由について書いた。
引き締まった身体や整った外見を見ると、私たちは無意識のうちに「しっかりした人なのだろう」と感じてしまう。
それは偏見というより、人間が情報を素早く処理するための仕組みに近い。
しかし最近、その前提そのものが揺らぎ始めているように思う。
私たちは長い間、見た目を信用してきた。
整った顔立ち。
引き締まった身体。
清潔感のある服装。
そうしたものは、その人を判断するための材料として機能してきた。
もちろん完全ではない。
それでも、ある程度は信用できる情報だった。
ところが現在、その状況は少しずつ変わり始めている。
スマートフォン一つで写真は加工できる。
肌は滑らかになり、輪郭は整い、体型さえ補正できる。
少し前なら写真だけだったものが、今では動画でも違和感なく加工できるようになった。
つまり私たちは、「実際の姿」ではなく「編集された姿」を見る機会が増えているのである。
さらにその先にはAIがある。
今では実在しない人物の画像を作ることも珍しくなくなった。
存在しない顔。
存在しない身体。
存在しない人生。
それらが本物らしく表示される時代になっている。
ここまで来ると、見た目はもはや現実を証明するものではなくなる。
昔なら筋肉は生活の痕跡だった。
農作業を続けた人。
現場で働く人。
荷物を運ぶ人。
そうした身体には、それぞれの生活が刻まれていた。
身体を見れば、その人が何をしてきたかがある程度想像できたのである。
しかし現在は違う。
身体そのものを目的として作ることができる。
しかも加工によって、さらに理想的な姿へ近づけることもできる。
見た目と現実の距離は、以前よりずっと曖昧になった。
もちろん、それが悪いことだと言いたいわけではない。
身だしなみを整えることも、自分を良く見せる努力も大切なことだ。
私自身、人は見た目から受ける印象を無視できないと思っている。
ただ、その見た目だけを信用するのは難しくなってきた。
そんな時代に入ったのではないだろうか。
興味深いのは、こうした変化が進むほど、人は逆に「本物らしさ」を求め始めることである。
加工されていないもの。
作られすぎていないもの。
時間の積み重ねが感じられるもの。
そうした存在に安心感を覚える人は少なくない。
では、その「本物らしさ」とは一体何なのだろうか。
次回は、身体・労働・信用という三つの関係から、そのことについて考えてみたい。
『見た目の信頼は崩壊するのか――AIと加工が変える身体のリアリティ』
見た目を信じられなくなったとき、人は何を根拠に他者を判断するのでしょうか。
その先には、「本物らしさ」とは何かという新しい問いが待っています。
→ 次の記事
『本物らしさはどこへ向かうのか――身体・労働・信用が分離した社会で』



コメント