昔の集落には、「御隠居」と呼ばれる年配者がいたという話があります。
仕事の第一線からは退いているものの、地域から離れるわけではありません。若い世代の相談に乗り、時には揉め事の仲裁役となりながら、集落のまとまりを支える存在でした。
落語に登場する長屋の御隠居も、どこかそんな役回りです。困りごとを抱えた人がやって来ると、頭ごなしに説教するのではなく、まず話を聞く。そして双方の言い分を聞きながら、落としどころを探していきます。
やがて時代が変わると、そうした役割の一部は寺の住職などが担うようになったとも言われています。
本来の説教とは、上から正論を押しつけることではなく、人の話に耳を傾け、それぞれの事情を汲み取りながら中ほどの道を探すことだったのかもしれません。
考えてみれば、現代にも似たような場があります。
ラジオの人生相談番組です。
相談者にとっては切実な悩みであり、人生を左右する問題であることも少なくありません。しかし、聞いている側は必ずしも真面目に答えを求めているわけではないように思います。
むしろ、
「次はどうなるのだろう」
「この人はどんな結末を迎えるのだろう」
そんな野次馬根性にも似た気持ちで耳を傾けている人も多いのではないでしょうか。
それは決して意地悪な意味ではありません。
人は昔から、他人の失敗談や悩み話の中に、自分自身を重ね合わせてきました。
落語の主人公たちも失敗ばかりです。
とっぽ話に登場する人物たちも、どこか抜けていて笑われる存在です。
それでも話が語り継がれるのは、私たち自身の姿がそこに映っているからなのでしょう。
昔の集落で語られた相談事や揉め事も、時が経つにつれて笑い話になり、とっぽ話になり、やがて民話へと姿を変えていったのかもしれません。
そう考えると、昔話や民話とは特別な物語ではなく、人々が日々交わしていた雑談の積み重ねだったとも言えそうです。
人は昔から、誰かの話を聞きながら生き方を学び、笑い、そしてまた次の世代へ話を手渡してきたのでしょう。



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