笑いと異常性は紙一重 ― 『マラヴィータ』から考える人間の感覚

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リュック・ベッソン監督の『マラヴィータ』を流し見していると、妙に笑ってしまう場面が多かった。

元マフィア一家が証人保護プログラムの下で田舎町へ移り住み、平穏な生活を送ろうとする。しかし彼らは長年身についた価値観から抜け出せず、些細な問題を暴力や恫喝で解決してしまう。

冷静に考えれば危険な人々である。

それなのに不思議と笑えてしまう。

息子は父親の乱暴な言葉について「親父のクソ発言には様々な意味合いがある」と真面目な顔で解説する。盗聴しているFBI職員たちは監視対象である一家に同情し始める。さらにはマフィア映画を「刑事が抜けるエロ映画」と評する場面まである。

どれもまともな感覚で考えれば妙な話ばかりだ。

しかし登場人物たちは誰一人として自分たちを異常だとは思っていない。

彼らにとっては、それが普通なのである。

私はこの映画を見ながら、以前考えた『パール』や『関心領域』のことを思い出していた。

ジャンルも内容も全く異なる作品だが、どちらも「本人にとっては当たり前」という感覚を描いていたからだ。

『パール』の主人公はスターになりたいという願いを抱いていた。願いそのものは特別ではない。しかしその願いを叶えるための手段が周囲から見れば異常だった。

『関心領域』では、収容所の隣で家族が穏やかな日常を送っている。観客だけがその異様さに気付き、当人たちはそれを日常として受け入れている。

そして『マラヴィータ』では、マフィアの価値観が家族の日常に溶け込んでいる。

同じ構造でありながら、『パール』では恐怖になり、『関心領域』では不気味さになり、『マラヴィータ』では笑いになる。

その違いは何なのだろう。

おそらく笑いとは、異常そのものから生まれるのではない。

当人たちが真面目であるにもかかわらず、周囲との感覚にズレが生じた時に生まれるのだと思う。

家族の習慣、地域の常識、職場の文化なども同じかもしれない。

中にいる人には普通でも、外から見れば不思議に映る。

人間は環境に慣れる生き物だ。

だから異常な環境であっても、そこで暮らし続ければそれが日常になる。

『マラヴィータ』の面白さは、そんな人間の曖昧な感覚をブラックユーモアとして見せてくれるところにある。

笑いと異常性は紙一重。

この映画を見ながら、そんなことを考えていた。


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